秋の日の午後、車を走らせていると、巨大なコンバインが路肩に止めてありました。注意を呼びかける黄色い看板には、「収穫作業中」とありました。道路から畑を見渡すと、ここに何の種が蒔かれたかは一目瞭然です。とうもろこしの種です。農家の人がコンバインに乗って収穫しようとしていたのが、広大な畑に実ったとうもろこしだったからです。
とうもろこしの種を蒔くなら、いずれとうもろこしが実って、それを収穫するのは当たり前だと思うでしょう。しかし、私たちは信仰生活における種蒔きと刈り取りの関係を受け入れているでしょうか。使徒パウロは語りました。「思い違いをしてはいけません…人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。
自分の欲を満たす生き方をしているなら、他人のものを欲しがったり、自己中心的になったり、さらにはアルコールやギャンブル依存という状態にすら陥ります(5:19-21)。一方で、聖霊とともに歩むなら、平安、親切、自制といった御霊の実を結びます(5:22-23)。神のあわれみにより、私たちは「御霊のために」蒔き、永遠のいのちを刈り取る生き方を選び取ることができます(6:8)。
もしイエスが、今日、あなたの人生を刈り取ろうと宣言されたらどうでしょう。この一年、毎日どんな選択をしていましたか。その選択の実を集めなさいと言われたらどうでしょう。あなたは主に、何をお見せすることになりますか。
今日蒔いた種が、明日刈り取る果実の種類を決める。
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