人とうまくやる
私は人付き合いの良いほうです。特に、気の合う人たちと一緒にいるのは嬉しいものです。しかし、好きな人たちとだけ付き合っている訳にはいきません。中にはとげのある人もいます。「人というものを知れば知るほど、ペットの犬が好きになる」という皮肉も分からないわけではありません。そんな私たちは、人間関係がうまくいかないと相手の責任にする傾向があります。
使徒パウロは、クリスチャン同士がうまく付き合うことについて述べています。「…一致を保ち…」、「…他の人のことも顧みなさい」、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」と教えています(ピリ2:2-5)。
考えてもみてください。イエスは私たちのために、ご自分の立場や特権を捨てられました。しもべとして生きて、ご自分のいのちを犠牲にすることを選ばれました。神と人の関係を喜びに溢れたものにするために、そうしてくださいました(ヘブ12:2)。私たちがどうしようもない存在であったにもかかわらず、そうしてくださったのです(ロマ5:8)。
ですから、付き合いにくい人と一緒に何かをすることになったら、その人に愛を示すことができるように助けてください、と祈りましょう。そうすれば、主があなたの対人関係に対する態度を少しずつ変えてくださり、いずれは驚くほどになるでしょう。
信じたばかりの頃の喜び
ティーボールを考えついた人は、天才だと思います。ティーボールは野球に似ていますが、小さな子どもでも三振することなくボールを打てるからです。このスポーツには、投手はいません。5~6歳の子どもの腰くらいの高さのゴムの台の上に、ボールを置きます。そして子どもは球に当たるまでバットを振り、当たれば走ります。私が初めてコーチをした時、一人目のバッターが外野まで届く大ヒットを打ちました。すると、全員が守備位置を離れてボールを取りに走りました。そして、ひとりがボールを取ったのですが、内野には誰も残っておらず、送球できませんでした。外野では、バッターの快挙に選手全員から歓声が湧き上がりました。
イエスを信じて救われたばかりの人は押さえ切れない喜びが湧き上がり、その人のそばにいると、こちらまで嬉しくなってきます。私たちは喜びをともにしますが、私たちだけでなく、御国の天使らもこの喜びを共有します(ルカ15:7)。新しくクリスチャンになった人は、主イエスを情熱的に愛し、もっと主を知ろう、もっとみことばを学ぼうとワクワクしています。
しかし時がたつにつれ、クリスチャンとして生きる苦労や葛藤にくじけ、今では初めて信仰を持った時の感動が薄れることもあるでしょう。ですから、新しく信仰を持った人たちと喜びを共有しましょう。神は、あなたの信仰をリフレッシュさせるために、この人たちを用いておられるのかもしれません。
しあわせな人生
富や力、美しさ、愛や結婚、娯楽などはどれも良いことですが、人生の極みではありません。人生の極みとは、神を愛し、神の愛を受け入れることです。つまり、神に栄誉を帰し、神を人生の友とすることがベストです。こういう生き方が、私たちを最良の人生に導きます。それは満足と喜びを与えてくれます。また、クリスチャンは永遠までもこのような生き方をするのです(ヨハ10:10)。
ですから私たちは、神と一緒に過ごす時間をしっかり確保して、神の愛に憩わなくてはなりません。私たちは、この愛によって造られました。神とともにあることが、私たちの存在理由であり、最高の人生を送る手段です。
詩篇の作者は「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう」と語ります(詩73:28)。つまり、幸せな人生とは、誰にもまして私を愛してくださる神に近づくことです。
では、どうすれば神に近づくことができるでしょう。私には昔からしていることがあります。毎朝数分間、福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を読み、イエスが言われたことや、なさったことを書き留めます。結局のところ、神がどのようなお方であるかを示すために、イエスはこの世に来られたのですから(ヘブ1:1-3)。福音書の登場人物を自分と置き換えてみてください。例えば、ツァラアトに冒された患者にイエスが愛の御手で触れ、病を癒されたところはどうでしょう(マコ1:40-45)。神が、どれほどあなたを愛しておられるか考えましょう。神に感謝しましょう。