Month: 2月 2013

新しい目

最近、キリストを信じたという大学生に会いました。彼女は、救われて最初に起こった変化について、次のように語りました。
「キリストの救いを信じたとき、神が天から降りて来られて私の目をつけ替えてくれたように感じました。霊の真理が理解できるようになったのです。」

救い主と出会って霊の目を得たと語るこの女子大生の話は感動的です。しかし、彼女の経験はめずらしいものではありません。すべての人は、キリストを救い主と信じたときに、霊の目を授かります。けれどもときどき、霊の目に霧がかかってはっきり見えなくなることがあります。それが起こるのは、私たちが自分とキリストとの関係をぞんざいに扱ったときです。

使徒パウロは、「心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」を理解できるようにと、エペソのクリスチャンのために祈りました(エペ1:18-19)。彼は、クリスチャンが心の目を開かれることを熱心に祈り求めたのです。このことから分かるのは、キリストにあって神が成してくださったこと、また今後もしてくださることを十分に理解し感謝することは、私たちにとって非常に重要だという真理です。キリストを信じる人には、霊的な真理を見定める新しい目が与えられています。神としっかり向き合うならば、キリストにあって与えてくださったすべてのものをその新しい目で見ることができるように、神が助けてくださいます。

心から

有能なスポーツ選手が情熱を燃やし、技を競ってフィールドで戦っている姿は魅力的です。そこには試合に対する彼らの思いが表れています。一方で、長いシーズンが終わりに近づいたころ、優勝争いから完全に脱落したチームは消化試合を戦います。そんなとき、選手のプレーに熱い思いを感じられないことがあります。すると、良い試合を期待し、料金を払ってスタンドにやって来たファンはがっかりです。

私たち一人ひとりにとって、情熱は人生の大切な要素です。主にどう仕えているかを見れば、その人の主に対する姿勢は明らかです。使徒パウロによると、主に仕えることの中には、各々の日々の仕事が含まれており、日々の仕事にどう向き合うかは、私たちがどう主に仕えているかを示しています。つまり、「うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と教えています(エペ6:6-7)。

このみことばの要は、「心から」だと思います。天におられる父なる神は、私を深く愛してくださり、ご自分のひとり子を私のために犠牲にしてくださいました。そのような神に対して最善を尽くさないわけにはいきません。神のために生きようという情熱は「心から」のものです。心からの思いは、自分のためにこれほどまで尽くしてくださった神に、何としても応えていこうとします。