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Dennis Fisher

Dennis Fisher

デニス・フィッシャー氏は、2005年に「デイリーブレッド」の著者に加わり、以来、歴史や科学、文学に触れる例話を多く取り入れてきました。フィッシャー氏には、ふたりの成人した子どもと孫がひとりあり、妻のジャネットとともにミシガン州デウィットに住んでいます。

寄稿一覧 Dennis Fisher

重荷を捨てよう

聖書のみことば:へブル12:1-5

私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。—ヘブル12:1

海軍の歴史にとって暗い出来事が、1628年8月10日に起こりました。その日、スウェーデン王国の軍艦ヴァーサ号が処女航海に出航しました。竣工までに2年を要し、豪華な内装と64の大砲を持つ軍艦は、スウェーデン海軍の誇りでした。しかし、出航してまもなく沈没してしまったのです。何が起こったのでしょう。実は、船が重すぎて航行に適さなくなっていました。過剰な重量が、ヴァーサ号を海の底に沈めてしまいました。

クリスチャンの人生も、余分な荷物によって重くて沈んでしまうことがあります。ヘブル人への手紙は、「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と語り、私たちの信仰の歩みを励ましてくれます(ヘブル12:1-2)。

私たちも豪華な船のように、表向きはりっぱに見えるかもしれません。しかし、もし罪という重荷が内側にあるなら、私たちの耐性は、弱まってしまいます。それには治療法があります。神の導きと聖霊の御力に頼ることによって、私たちの重荷は軽くなり、耐える力も湧き上がってきます。

赦しと恵みは、信仰の旅人には、どんなときにも与えられます。

すべきことをやりぬき、すべきでないことは絶対にしない。それが耐えるということだ。

十分に整えられる

聖書のみことば:Ⅱテモテ3:14-17

聖書はすべて、神の霊感によるもので……それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。—Ⅱテモテ3:16-17

医療用メスの開発者でスイス人のカール・エルズナーは、何年もかけて軍仕様のナイフを制作しました。19世紀のことです。このスイスアーミーナイフは、その鋭い切れ味と多機能性で今日でも多くの人に知られています。小刃、金属のこぎり、はさみ、ルーペ、缶切、ドライバー、定規、ボールペンなど、多彩なツールがセットされていて、野外でキャンプをする人たちに、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれるのです。

私たちクリスチャンにも、罪にまみれたこの世を正しく生き抜くために、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれる何かが必要です。そのために、神はご自身のみことばをくださいました。パウロはこう語っています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ3:16-17)。

「整えられ」ると訳されている単語は、「完全に適応させる」または「きちんと取り付ける」という意味です。聖書は次のようにして私たちを整えてくれます。第一に、「教義」という霊的真理が与えられます。次に、私たちの不完全な部分を示し「戒め」てくれます。さらに、私たちが罪を犯したとき、それを示して「正して」くれます。最後に、正しい人生を生きるために「指導」してくれます。

神のみことばほど価値あるツールはありません。みことばは、私たちが信仰者として歩み続け、霊的な成長を遂げるために不可欠なものです。

聖書には、健全なたましいに必要な栄養素がすべて含まれている。

死に打ち勝つ

墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。—ヨハネ5:28-29

私は先日、「アナスタシス」という題名の古いフレスコ画に深く感動しました。 アナスタシスとは「よみがえり」という意味で、死を打ち負かしたイエスの大勝利を描いています。墓から出てきたばかりのイエスが、アダムとエバを棺桶から引き出して永遠のいのちに導いておられます。彼らの堕罪の結果としてもたらされた肉体とたましいの死が、キリストのよみがえりによって反転されたことを実に見事に表しています。この絵の素晴らしさは、何と言ってもそこです。

主イエスは十字架の死を目前に、やがて信じる者たちを新たな栄光のいのちへと呼び寄せてくださる日について、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」と預言なさいました(ヨハ5:28)。

キリストが死に打ち勝たれたので、墓はもはや終着地ではなくなりました。もちろん、愛する人と死に別れることを悼み悲しむのは自然なことです。しかし、信仰に生きる人は、死の向こうに何の望みもない人たちのように悲嘆に暮れることはありません(Ⅰテサ4:13)。イエスが復活されたという事実は、すべてのクリスチャンがやがて栄光のからだをいただいて、墓からよみがえるという証拠です(Ⅰコリ15:42-44)。そして、「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサ4:17)。

キリストが生きておられるから、私たちもいのちを受けて生きる。

死に打ち勝つ

聖書のみことば:ヨハネ5:24

墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。—ヨハネ5:28-29

私は先日、「アナスタシス」という題名の古いフレスコ画に深く感動しました。 アナスタシスとは「よみがえり」という意味で、死を打ち負かしたイエスの大勝利を描いています。墓から出てきたばかりのイエスが、アダムとエバを棺桶から引き出して永遠のいのちに導いておられます。彼らの堕罪の結果としてもたらされた肉体とたましいの死が、キリストのよみがえりによって反転されたことを実に見事に表しています。この絵の素晴らしさは、何と言ってもそこです。

主イエスは十字架の死を目前に、やがて信じる者たちを新たな栄光のいのちへと呼び寄せてくださる日について、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」と預言なさいました(ヨハ5:28)。

キリストが死に打ち勝たれたので、墓はもはや終着地ではなくなりました。もちろん、愛する人と死に別れることを悼み悲しむのは自然なことです。しかし、信仰に生きる人は、死の向こうに何の望みもない人たちのように悲嘆に暮れることはありません(Ⅰテサ4:13)。イエスが復活されたという事実は、すべてのクリスチャンがやがて栄光のからだをいただいて、墓からよみがえるという証拠です(Ⅰコリ15:42-44)。そして、「私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサ4:17)。

私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。Bill Crowder

キリストが生きておられるから、私たちもいのちを受けて生きる。

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四章:報酬

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デボーションをしたのに、一日がうまくいかなかったと感じたことはありますか。聖書を読んで祈った時間と労力は、自分の問題に何の役割も果たさなかった。デボーションはデボーション、現実の出来事は現実の出来事...。もしそうなら、それは区画化です。すなわち、霊的な生活と普段の生活を住み分けているのです。しかし、それは神のみこころではありません。神は、私たちと共に歩んで、生きることに格闘している私たちを助けたいと願っておられます。*

*強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:6)

ルカの福音書24章13節から32節には、エマオに向かっていたふたりの弟子にイエスが現れてくださったときのことが記されています。ここには、神と一日中会話することに関連する洞察が示されています。

「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ24:13-16)

この日、エルサレムからエマオに向かっていたふたりについては、ほとんど何も分かっていません。しかし聖書は、彼らの心は葛藤していたと示しています。彼らは落胆し、失望していました。そして、「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いて」いかれました(15節)。よみがえられたイエスが、旅の道連れになってくださいました。何と素晴らしいことでしょう。イエスは、私たちともいっしょに歩んでくださいます。人生は旅路です。そしてイエスは、私たちの旅の道連れになって、山あり谷ありの道をいっしょに歩んでくださいます。たまに休憩所で会話するだけでなく、それ以上のことを求めておられます。

でこぼこを知る。人生のチャレンジのひとつは、挫折や矛盾と向き合うことです。私たちの思いが乱れるのは、私たちの視野に限りがあるからです。私たちは一部分しか見ることができません。エマオに向かっていたふたりの弟子の問題は、まさにそうでした。色々なことが起こっただけではなく、それらのことは、彼らが予測していたことの真逆でした。イエスはふたりの葛藤をご覧になり、声をかけられました。

「イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。『エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。』イエスが、『どんな事ですか。』と聞かれると、ふたりは答えた。『ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。』」(ルカ24:17-24)

イエスの質問に答えて、ふたりはなぜそんなに思い乱れているのかを説明しました。彼らの話を要約すると、「ナザレ人イエスはイスラエルをあがなうメシヤだと期待していたのに、彼は十字架につけられてしまい、自分たちを含む多くの人の希望が失せてしまった。その上、イエスの墓は今は空だという。また、仲間の何人かは天使を見たと言っている」というものです。

このふたりは、ほんの数日前には期待で胸を膨らませて、イエスとともに歩んでいたのです。それなのに、すべての夢が断たれてしまいました。彼らは世界、特に最近の出来事を、鍵穴を通して見ていたのです。人間は限界のある生き物で、どんな状況であっても、その一部分しか見ることができません。*

*神は無限なので私たちには十分に理解できませんが、そのことが神を求める妨げになってはなりません。私たちが神のすべてを分かることは決して無いでしょう。しかし、それでも神を知ることはできます。神は私たちとの深い関わりを望んでおられます。

このふたりは、自分が知っていると思っていたことに実体験が一致しないので、葛藤していました。私たちも同じような体験をします。

私たちの限りある力では全体像を見渡せないので、私たちの信じていることと、つじつまの合わないように見えることが起こるかもしれません。自分が期待したように祈りが応えられなかったり、不幸としか言えないようなことが起こったりしても、自分の理解力には限界がある、ということを忘れてはいけません。

イエスは私たちに、心配ごとを話して欲しいと思っておられます。私たちの話(些細なことでも、大きなことでも)にいつでも耳を傾けてくださいます。イエスとその信徒には特別な絆があるので、どんな状況にいたとしても、祈り心で思いの丈を打ち明けることができます。

イエスに説明してもらおう。このふたりの望みは、完全に断たれたように見えましたから、さぞかし絶望していたことでしょう。しかし、イエスが彼らの体験を聖書に照らされると、新しいことが見えてきました。

「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:25-27)

「ああ愚かな人たち」などというのは、ずいぶん失礼に聞こえますが、原語のギリシャ語を直訳すると「知識の無い人たち」となります。*このふたりは物語の全容を知らなかったのです。

*この25節で「愚か」と翻訳されている単語は、ガラテヤ人への手紙3章1節と3節で、使徒パウロが用いている単語と同じです。パウロは、ガラテヤ人の愚かさは知識と行動の両面だと述べます。つまり、「愚か」とは、無知というだけではなく、知っているのにそれに基づいて行動しないことだと語ります。

イエスはふたの問題を解決する唯一のもの、すなわち追加の情報を提供されました。偉大な教師であるイエスは聖書のみことばから、ここ数日の出来事は驚くに値しないことを教えてくださいました。救い主キリストは、栄光を受ける前に苦しまなければならないとの啓示を表されました。

私たちがここで学ぶべきことは、自分にも失望し、苦悩するときもあるかもしれない。しかしそれは、自分には広い視野で見るための知識がないからだ、ということです。主はみこころのときに、すべてを明らかにしてくださいますが、それは、キリストの再臨のときかもしれません。状況にかかわらず、教えやすい柔軟な生徒であること、また、教師であるキリストから毎日教えを請うことによって、私たちの信仰や知性は育っていきます。

神の御業を待つ。よみがえられたキリストと有意義な交わりをするならば、このお方ともっといっしょにいたいと思います。このふたりもそうでした。目的地に着いた後も、イエスと離れたくないと強く思いました。

「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。」(ルカ24:28-29)

彼らは歩きながらイエスに教えてもらいました。しかし、もっと聞きたいと思って、「いっしょにお泊りください」と無理に願いました。

イエスは彼らと夕食をともにされました。そして、神の臨在が、超自然的な御業を可能にしました。日常的な普通のことにイエスを招き入れると、どんなところにでも、神の御業を成す道が開かれます。*

*神は、私たちの日常の生活に関心を寄せておられます。このことは、イエスが弟子たちに教えてくださった祈りから明らかです。祈りを教えてくださいと弟子たちに言われて、イエスは天の御国についてだけではなく、日々の食べ物や人を赦すことなど、日常の生活に関わることも祈るように教えられました。(マタイ6:8-15、ルカ11:1-4)

「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」(ルカ24:30-32)

イエスは食卓に着き、パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡されました。そこで、彼ら の目が開かれて、イエスだと分かりました。それまでは、「目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」のです(16節)。しかし、今や誰であるか分かりました。

急にイエスだと分かり、そしてすぐに姿が見えなくなったので、ふたりはびっくりしたかもしれません。しかし、彼らはイエスとともに歩き、聖書を教えていただいたときのことを思い出しました。神の洞察力と神の権威をもって、聖書が解き明かされたとき、ふたりの心は燃えていました。

「彼らの目が開かれ」(31節)の「開く」と、「聖書を説明してくださった」(32節)の「説明する」には同じギリシャ語の単語が用いられています。イエスは聖書の真理を彼らの前に「開いて」くださったのです。

聖書の中にキリストを見て、自分自身の体験の中にもキリストを見るという体験は、「静思の時」という限定された時間にだけでなく、一日を通して起こるべきことです。

 

人間関係を育てるのは容易ではありません。努力、自己管理、コミュニケーション、忍耐、信頼、時間など、大変さが伴います。神との関係を育てることも同じです。この冊子は、読者を励ますために書かれました。頑張って、計画を立てて、神といっしょに前進しようとする方の助けとなれば幸いです。聖書を読み、祈る時間を作りましょう。このようにして、神とともに過ごす時間を作りましょう。神と話し合ったことを生活のすべての分野に取り入れましょう。神の御声に耳を澄ましましょう。そして、神とたびたび話し合いましょう。そうするなら、あなたの信仰は成長し深くなります。きっと、努力した甲斐は十分にあったと思えることでしょう。

三章:訓練

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自己管理さえすればデボーションができるわけではありません。人間関係はコミュニケーションを重ねることで形成されます。その際、一方通行ではなく、相互に聴き、相互に語ることが大切です。

神が語られる。その昔、神は民に直接、話をされました。第一サムエル記3章21節は、「主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現された」と語ります。「現された」と訳されたへブル語の単語の意味は、「おおいを取り除ける」とか「啓示する」です。創造主が、ご自身の考えや品性、また意志をしもべに開示されたのです。一方、今日では、神のコミュニケーションはおもに聖書を通して行われます。私たちが聖書を読むときに、聖霊が私たちの心を教え導いてくださいます。

神のみことばの自習を実のあるものにするためには、聖霊の助けを得つつ、次のようなプロセスを踏んでいくとよいでしょう。

まず、その文字通りの意味を把握します。みことばを、その文脈の中でとらえます。聖書のみことばが、その時代とその文化の中で何と述べているかを把握します。

次に、その意味することは何だろうと考えます。意味は、文脈中の人々に限られたことではありません。聖書のみことばには核となる霊的な真理があり、それは時代を超えます。そのみことばが今日の私たちに何を語っているかを考えましょう。

最後に、それに自分をどう適応させるかと考えます。聖書の中に見つけた原理原則に沿って神に自分を変えていただこうと決心するなら、聖霊は、私たちの考え方や会話の内容、人や物事に対する姿勢や態度などを変えてくださいます。「どう適応させるか」とは、すなわち、「このみことばを学んだ結果、自分はどう変わるべきだと思うのか」という質問なのです。*

*昔、レクティオ・ディヴィナ(ラテン語で『神聖な読書』という意味)と呼ばれた演習は、聖書を読み理解する一助であったかもしれません。レクティオ・ディヴィナは、聖書をゆっくりと熟考しながら祈るもので、聖書のページを通して神の声を聞こうとするものでした。

私たちは神に応答する。あなたは、思いの丈を打ち明ける手紙を書いたことがありますか。もし、そういう手紙を送った相手から返事が来て、中を開けてみると、自分の書いたことにはまったくふれず、その人が願っていることや心配していることばかりが書かれていたら、どんな気持ちになるでしょう。

聖書は天の父からの愛の手紙です。聖書は、天の父の愛がどれほど深いかを示す物語です。それなのに、私たちは聖書を読んだ後に祈る場合でも、自分のことばかりを伝えようとします。神の手紙に応答するのではなく、自分の差し迫った必要に集中してしまいます。

私たちは、どんな心配ごとでも、神に祈ることができます。しかし、忘れないでください。あなたは今、神のみことばを読んで、神が何に心を寄せておられるかを知ったのです。読んだことについて、何と思うか、神に応えましょう。神の約束に感謝しましょう。神の教えを喜びましょう。聖霊に指摘されたことを悔い改めましょう。神の品性を発見して、大いに喜びましょう。キリストのように作りかえられることを切に願って行動する中で、その日のみことばの意味がよくわかるように、また深く理解できるように祈りましょう。

ダニエル書6章10節は、ダニエルがいつも「日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」と述べています。彼は大変な状況に置かれていましたが、自分の願いを神に申し上げると、彼の祈りのときは感謝で満ち溢れました。私たちの祈りも同じように、神の品性や神のみわざを思って感謝に満ち溢れているべきです。

ノートをつける。デボーションのときに気づいたことをノートに記していくと、自分の傾向が分かります。ノートをつけていたからこそ気づいた信仰の前進もあります。以下のような、簡単なもので十分です。

ノートをつけると、学んだことが思い出しやすくなりますし、生き生きとしてきます。こうして学んだことから一日中、影響を受けつづけることができます。

イエスは完全なお方だったのに、常に神と共におられようとなさいました。つまり、地上の生活を、すべての人間がそうあるべき姿で送られました。イエスは、天の父に頼りきって生きられたのです。イエスの人生は、天の父に従いきった人生でした。私たちは、前述のイエスの「静思の時」から洞察を得ることができます。また、神とともに過ごした時間のインパクトを一日中失わない方法も、イエスから学ぶことができます。

序、一章:問題

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「祈りの生活は充実している?」と、父は息子に尋ねました。彼は、教会学校にも礼拝にも参加している14歳の賢い男子です。ところが、彼は肩をすくめて「そんなに祈ってはいないよ」と答えました。父は心配して「どうして?」と尋ねました。すると息子は、「今、困っていることは、あまりないんだ」と答えました。

このティーンエイジャーの正直な応答は、実は、多くの大人が認めたくない事実ではないでしょうか。多くの大人のクリスチャンも、困ったことがなければ祈りません。

神と一緒に過ごす時間を取れないというのは、多くの人に共通の悩みです。「デイリーブレッド」の寄稿者デニス・フィッシャーはこの冊子の中で、聖書を読み、祈り、人に仕えようと努力する人たちのために、現実的な手助けを提供してくれます。

 

  • 一章:問題

神は、男と女を創られた後、そよ風の吹く園の中を歩き回られたと、聖書は語ります(創世記3:8)。宇宙の創造者は、御簾(みす)の内や天使の護衛の元に身を隠したりはなさらず、むしろ、人と交流することを願われました。そよ風の吹く園でアダムとエバとの交わりを楽しまれた神が、今日、私たちとも交わろうと言われます。デボーションとは、そういうことです。私たちは、神の臨在や神の安心を体験し、神からアドバイスをいただくことができます。

私たちは有意義な「静思の時(デボーション)」をしたいと願いながらも、それは難しいと感じています。そして、すべきことをしていないと罪意識を感じているかもしれません。しかし、霊性は一週間に何回デボーションしたかで決まる、と考えるのは間違いです。デボーションは、予定をこなしたか否かでなく、心の問題です。

*「静思の時」は 、神と会話するために取る特別な時のことです。通常は毎日決まった時間にします。そして、祈り、聖書の黙読、瞑想などをしますが、そのことを「デボーション」といいます。

 

大学二回生の頃、私は自己管理ができませんでした。あれやこれやに時間を取られて、課題を期限までに提出できないし、試験勉強に集中することもできません。時間のやりくりがつかず、できないまま放っておくこともありました。ついには、きちんとできないだけでなく、どうすればよいのか、予定を立てることさえできなくなっていきました。

ある日、思い切って教授に相談しました。すると、その日の優先順位を決めなさいと言われました。私は、彼の言葉に沿って考える中で、最優先は神と過ごす時間だと思いました。何はともあれ、毎日、このことだけはやっておきたいと思いました。それならば、一日の始めにやろう。そうすれば、このことだけは必ずできるだろうと思いました。

しかし次の日の朝、前日の勢いはありませんでした。「静思の時」は、大きな努力の割に報いが小さいように思われました。要するに、やる気が起きなかったのです。

私は 、神に告白しました 。「僕の心は冷たくて、神さまといっしょに過ごす気分になれません。」そして、そんな自分を赦してくださっていることを感謝しました。私は、自分のやる気になれないその気分を神に取ってもらおうと決めました。そして、無気力でぐずぐずした自分を明け渡しますから、その代わりに神の活力をくださいと祈りました。私は、もう一度、その日の聖書個所を読みました。そして、「私を内側から変えてください。また、今日の勉強について、ベストを尽くすことができるように助けてください」と祈りました。

その朝、教室に向かう足取りは軽やかでした。授業にも集中でき、何よりも、以前はできなかった「自分を律する」ということができました。その学期は、成績も上がりました。神との約束の時間を守れるようにと祈りつづけると、神は祈りに応えてくださり、必要な力が与えられました。

預言者イザヤは、主を待ち望む者は新しく力を得ると語りましたが(イザヤ40:31)、この約束は、古代イスラエル人だけでなく、今日の私たちに対する約束でもあります。ここで「新しく」と訳されているヘブル語の単語は、「取り換える」とか「新鮮さを示す」とか「芽を出す」という意味です。「待ち望む」という姿勢は、受け身ではありません。人間の努力を神の力に取り換えるという、積極的な姿勢です。自分の知らない深い所に宿っている、意思や決意を固くする力を見つけて汲み出さなければならない、というのではありません。むしろ、神のエネルギーを求めなくてはなりません。私を強くしてくださいと求めるのです。

私たちの模範

神と過ごす時間について考えるとき、イエスを模範にするなら最高です。イエスは地上の生活の中で、ご自分に宿る神の力を用いることを抑制されました。イエスは完全に神なのに、天におられる父と、ご自分の内に住まれ、ご自分を通して働かれる聖霊とに依存されました。この依存は、イエスが天の父とふたりで過ごす時間をどれほど大切になさっていたかを見れば明らかです。福音書は、イエスが追いかける群衆から離れて寂しい場所に行き、天の父と交わっておられたことを記しています。*

*イエスが静かな場所に退いて祈られたことを記す聖書個所: マタイ26:36以降, マルコ1:35、6:46、14:32-39、ルカ5:16、6:12、9:18、11:1、22:41以降、ヨハネ18:1

マルコの福音書1章32節から39節は、そのような個所のひとつです。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。ここをよく見て分かることは、主イエスにとってデボーションは、大きなインパクトを与える大切なものだったということです。前日の夜、イエスは多くの病人や悪霊につかれた人を癒されました。そして朝が来ると、積極的に出て行き、神と交わる時間を取られました。きっとこの時間に霊性を整えられたのでしょう。

私たちの妨げと神の導き

「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」(マルコ1:36-38)

ここで「見つける」と訳されている単語は、「追跡して捕まえる」という意味です。シモン(ペテロ)と仲間は、「今日の予定はこうです」と言わんばかりに、「みんなが捜しています」と伝えました。彼らはイエスのデボーションのじゃまをしたのに、何とも思わなかったのでしょうか。

イエスは冷たいと思われても平気でした。真のデボーションによって、周りの人に対して鈍感になるでしょうか。いいえ、むしろ逆です。神と時間を過ごすことによって、イエスはより大きなミッションに向かおうとされ、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言われました。目の前にいる人の必要だけに振り回されていては、世の人の救いという神のみこころをないがしろにしてしまいます。イエスの決心は神の御前に静まる時を通して固められていきました。

イエスが神と過ごす時間は、充実した交わりのときでした。イエスはそこで、ご自分の使命を果たす力と方向性を手にされました。もし、自分のデボーションからイエスと同じような結果を得ようと願うなら、イエスの模範に従い、聖霊に助けていただいて、神のみことばに自分を適応させなければなりません。自分のすべてを変えるために、聖書のみことばに感化されなくてはなりません。*

*祈りを通して決心が固まっていった一例は、十字架にかかられる前夜のゲツセマネの園での祈りです。イエスは「わが父よ。どうし ても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」と祈られました(マタイ26:42)。

もし、神とふたりで過ごす時間を、一日一回の霊的オアシス、もしくは、霊的日課だと考えるなら、信仰生活とその他の生活を分離させるという罠に陥ってしまうでしょう。このような間違いを犯してはいけません。神と過ごす時間は、私たちの命綱です。エデンの園の昔から今に至るまで、神はご自分の民の人生の同伴者でありたいと願っておられます。

二章:準備

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愛し合っている人たちは、密度の濃い時間を共にしたいと願うものです。そして、そうするためには、愛に加えて自己管理が必要です。ふたりでいる時間を意識して作らなければなりません。

神と充実した時間を過ごしたいと思う人も、それと同様です。イエスは、ひとりになる時間を意図的に作られました。私たちも、それに倣うべきです。私たちは、時間が来たらデボーションをしようと考えて一日を始めますが、次々と用事に追われて、その日が終わってしまいます。しかし、神の臨在の真ん中に自分を置くならば、ものごとの見方が正されます。そして、デボーションを優先しようとするでしょう。

神との関係を深めるには、自己管理が必要です。使徒パウロは、コリント人への手紙第一の9章で運動選手を例に挙げて、自制について述べています。*

オリンピックを目指すアスリートは、トレーニングの妨げになるものを極力避けようとします。自分を律して厳しい練習をし、綿密に食事の管理もします。日々のデボーションについても同様です。神の力によって自分を訓練し、それを優先していくなら、驚くような成果が生まれます。

*また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(Iコリント 9:25-27)

以下のヒントが役立つはずです。

現実的な目標を立てましょう。文才に恵まれた学生がいました。しかし、彼は提出期限を守れません。なぜなら、良いものが書けないなら書かないと言うからです。しかし、この完全主義は彼の益にはならず、むしろ成績を悪くしました。私たちはデボーションに関して、この青年のようではないでしょうか。こうあるべきという姿にならないなら、やらない方が良いという考えです。

しかし、神と向き合う時間にとって大切なことは、完全か否かではなく、前進するかしないかです。不完全でも意識的にする方が、完全にできないのでやらないよりずっとましです。万事が整うということは、めったにありません。そんなことを待っているなら、全くできないかもしれません。*

*あわただしさだけでなく、完全主義は、神と静かな時を過ごすことを妨害します。少しでもすることは、全然しないよりずっと良いのです。

場所を見つけましょう。著書「神と人間との対話」の中でC.S.ルイスは、デボーションについて驚く提案をしています。彼 のアドバイスは、程良い妨害があると集中できるというものです。彼は、静か過ぎると他のことを考え出すので、電車でデボーションをしているという人を紹介しています。電車の騒音があると、集中しようとするので、集中力を助けるというのです。秘密の洞窟のような静かな場所などありません。各々が自分に適した場所を探さなければなりません。

決まった時間を決めて取っておきましょう。多くの人が、朝一番にデボーションをするように勧めます。聖書を読むまでは、朝食は食べないと言った人もいました。それは、その人にとっては良かったでしょうが、あなたの代謝や職業、ライフスタイルによっては、午後のひと時や夜の方が適している場合もあります。人はそれぞれ違うのですから。

聖書は、何時であっても神と過ごすように勧めます。ダビデは「朝にあなたの恵みを聞かせてください」と祈ります(詩篇143:8)。しかし、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」とも語ります(詩篇55:17)。「私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます」とも述べています(詩篇119:148)。*また、ダニエルは1日に3度祈りました(ダニエル6:10)。詩篇一篇は、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさ」んでいる祝福された人について述べます(2節)。

*キリスト教の伝統の中では、多くの場合、朝、日中、夕方と、祈りの時間が決まっていました。これは、祈りの生活を築くための訓練のひとつでした。

神と過ごす時間をいつにするかは、あなた次第です。あなたに合わせてよいのです。一番大切なことは、毎日その時間を守り、聖書のみことばを通して神があなたに語り、あなたが応答の祈りをするということです。

何時何分と厳密に決めても、これこれの後というように緩やかに決めてもよいので、予定を立てましょう。ダイアリーに書き込むなり、スマホのスケジュール管理に入れるなりして、その時間を確保しましょう。

時間を短くして、着実に続けられるようにしましょう。音楽の教師は、「毎日15分練習するほうが、週に二度、何時間も練習するより上達する」と言います。この原則は、デボーションにも当てはまります。毎日15分を必ず確保して着実に続ける方が、忙しくてできない日を作り、別の日に長い時間を取って穴埋めをするよりお勧めです。無理のない短い時間で始めて、習慣がついてきたなら、時間を延ばしていくことも可能です。どれぐらいの時間を割くかを祈って決めたなら、スケジュール帳に書き込みましょう。

神の指の跡

リーゴン・スティーブンズは経験豊かな登山家で、兄のニックと登っていました。ふたりで北アメリカの最高峰マッキンリーに登頂したことがあります。ところが2008年1月、彼らはコロラドの山で雪崩に遭って滑落し、ニックは負傷、20歳のリーゴンは亡くなりました。後にリーゴンのサックから日記帳が見つかり、ニックはその内容に深く慰められました。そこには次のような内省と神に対する賛美がいくつも記されていました。「私は神の作品だ。神の名が刻まれている。しかし、未完成だ。実際、神はまだ造り始められたばかり…。私の上には神の指の跡がある。私は唯一無二の存在…。この人生には私にしかできない仕事がある。」