賢い言葉
私は60歳代になった今、自分に良い影響を与えてくれた賢い先生たちを思い出します。聖書学校(大学)では旧約聖書学の教授の指導によって、聖書のみことばが臨場感をもって私の心の中で生き生きと躍動するようになりました。ギリシャ語の教授は厳しく、彼が設定する基準は非常に高かったので、私は必死で新約聖書を学びました。卒業後に派遣された教会の主幹牧師は、私が教会員の霊的成長を支えることができる牧師になるように、親身になって世話をしてくださいました。これらの先生方は、それぞれの形で、私を後押ししてくださいました。
見せて伝える
文章教室や文筆家たちの会議に参加すると、「見せなさい。説明ではダメだ」と必ず言われます。これはつまり、起こった事柄を説明するのではなく、読者自身が現場にいて自分で見ているかのように感じさせなければならないということです。伝える側は、やっていることを描写するのであって、説明するのではありません。
「別に…」
子どもたちが中高生だった頃、教会のユースグループに参加させていました。ユースグループのあった日、「どうだった?」と尋ねると、彼らは「別に…」とそっけなく答えます。これが何週間も続いたので、私は自分の目で確かめることにしました。いつも迎えに行く体育館に早目に行って彼らの様子をこっそり伺ってみると、息子たちは、みんなと一緒に話を聞いたり、意見を言ったり、笑ったりして楽しそうでした。そこで、帰宅途中にまた尋ねました。「今夜はどうだった?」しかし息子たちは、また「別に…」と答えました。私は言いました。「父さんは見ていたよ。君たちは楽しそうにしていたじゃないか。」すると彼らは、「まぁ、いつもよりはましだったかもしれないね」と言ったのです。