神学生の頃、老人ホームで働いていました。入居者の人たちの話に耳を傾けていると、ほとんどの人が、会話の端々で「今の生活は寂しい」と打ち明けました。友人たちはすでに亡く、自分がこの世を去ったとき、懐かしんでくれる人がいるだろうかと憂えているのです。
自分を覚えていてくれる人はいないと孤独を感じるのは、高齢者ばかりではありません。事実、私たちの多くは「ひとりぼっちだ」と感じます。正当、不当にかかわらず、それぞれが置かれている状況の中で、ひとりで思い詰め、寂しくなるのです。時には、旧約聖書の登場人物、ヨセフのような経験をすることさえあります。すなわち、自分を覚えているべき人が、自分を忘れてしまったのです。
創世記40章には、不当に牢に閉じ込められたヨセフの経験が述べられています。同じ牢屋にいた献酌官長は、ヨセフが預言した通りに釈放され、元どおりパロに仕えました。そうなった節には自分の無実を伝えてくれとヨセフが頼んだにもかかわらず、彼は忘れてしまいました。
私たちは忘れられたという思いを持つことがあるでしょう。けれどもヨセフのように、実はそうではありません。イエスが神の右に座っておられ、私たちの祈りは、必ず神の御座に届きます。なぜなら、私たちの主イエスが仲介者だからです。一人ぼっちで寂しいならば、永遠に共にいてくださるというイエスの約束の内に憩いましょう。
イエスは決してご自分の子どもを見捨てたり、忘れたりはしない。
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神の臨在