アメリカ人は、何年もにわたり、ペットボトルの水を飲みすぎています。ほとんどの地域では、水道の蛇口から無料で安全な水が飲めるのに、人々はペットボトルの飲料水を買います。無料で享受できるものにお金を払うなど、私には理解できません。しかし、お金を払ったものは、無料で手に入るものよりもすぐれていると考える人たちがいるのも事実です。

この傾向は、私たちの霊的生活にもおよんでいます。救いが賜物であることを、なかなか受け入れられない人たちがいます。救われるために何かしたいと思うのです。しかし、それができる人はいません。救いの代価は、完全無欠であることです(マタ19:21)。ですから、その代価を払えるのはイエスだけです(ロマ5:18)。イエスは、だれでも渇く者には「いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」と約束してくださいました(黙21:6)。

善行や慈善事業に寄付することで、救いの生ける水を買おうとする人たちがいます。もちろん、それは神が評価なさる良い行いのひとつですが、私たちの罪が赦されるために必要なものではありません。罪の赦しの代価は、イエスが私たちの代わりに死んで、すでに払ってくださいました。決して枯れることのない神の泉からただで水を飲むとき、イエスは私たちの霊の渇きをいやしてくださいます。