私の祖父や父、叔父たちは強く頑固な男たちで、当然のことながら、押しつけがましく伝道する人たちを敬遠していました。父のハワードが治療の難しい進行性のがんだと診断された時、私は非常に心配して、あらゆる機会をとらえては、父にイエスの愛について話しました。ところが父は私を尊重しながらも、「知る必要のあることは知っている」ときっぱり言って、この種の会話を終わらせました。

私はこの話題を二度と持ち出さないと約束し、気が向いたときに読んで欲しいと言って、神の赦しについて書かれたカード集を渡しました。私は、父を神に委ねて祈りました。私の友人は、父がイエスを知るまで命を引き延ばしてくださいと祈ってくれました。

ある日の午後、父が亡くなったと電話がありました。兄が空港に迎えに来てくれて、「父さんがね、イエスに罪を赦してくださいと祈った、と君に伝えてほしいと言っていたよ」と話してくれました。「それはいつ?」と尋ねると、「亡くなる日の朝だった」と兄は答えました。神は私たちに示してくださったように、父にも「あわれみ」(Ⅰテモ1:16)を示してくださいました。

私たちは直接に福音を語るときがあります。自らの証を語るときもあります。黙って親切にすることでイエスを証しようとするときもあります。そして、常に祈ります。しかし、私たちは知っています。救いは、結局は神の御業(みわざ)であって、私たちがどうこうできることではないのです。神はあわれみ深いお方です。祈りの結果がどうであれ、神は信頼できるお方です。