友だちと立ち話をしました。「彼、歩けたのよ!」と、一歳の甥が初めて歩いた様子を興奮げに詳しく話してくれました。もし、知らない人が聞いていたなら奇妙でしょう。大抵の人は歩けますから。

思うに、幼少期には独特の特別感があります。食べた、歩いた、笑ったと、まわりの人たちは喜びます。その特別感を思うなら、神が「子どもたち」と語って、私たちとの関係を示してくださるのは何ともありがたいことです。新約聖書は、私たちが神の子どもであり、キリストとの共同相続人だと述べます(ロマ8:16-17)。イエスが来られ、私たちは神の家の養子になりました。

私は、親が子どものよちよち歩きを見守るときのように、私の信仰の前進をご覧になっている神を想像します。

宇宙の神秘が明らかにされるとき、人は子どもの成長を見守る意味を悟るのかもしれません。もしかすると幼少期の特別感は、神の無限の愛に気づくために定められているのかもしれません。神の愛は無限です。私たちは地上の人生で、その一端だけを知らされています。