英国の作家イーヴリン・ウォーは、言葉づかいの悪さで人柄が分かるような人でした。やがてキリスト者になりますが戦いは続き、ある日、「そんな態度でクリスチャンだと言えるのですか」と言われました。すると彼は、「私はひどいかもしれません。でも、信仰がなければ、人間以下だったでしょう」と答えました。

正しいことをしたいのにできないと、使徒パウロは言いましたが、ウォーも同じでした。パウロは、律法が問題なのではなくて、自分が罪ある人間そのものだと言い、律法を心では喜んでいるのに従えない…この死の身体から救われることなどあるだろうか、と問いかけます。しかし、神がキリストによって救い出してくださるとついに悟り、喜び、感謝しました(ロマ7:14-25)。

己の罪を悔いて救い主の必要を認め、キリストを信じるなら、人は直ちに新生しますが、霊性を形成する旅路は死ぬまでつづきます。これについて使徒ヨハネは、「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(Ⅰヨハ3:2)と語っています。