友人が良くない選択を繰り返すので困っていると祈りのパートナーに話すと、彼女は「私たち皆のために祈りましょう」と優しく言いました。「私たち?」と眉をしかめると、彼女は答えました。「ええ。あなたはイエスの聖(きよ)さが私たちの物差しだといつも言うでしょ。それなら、自分の罪と他人の罪を比較すべきでないわ。」私は「痛いことを言うわね。でも正しい。私の上から目線や霊的プライドも、同じように罪だもの」と答えました。そして、彼女のことを話しているのだから、私たちは陰口を言っている…それは罪だ、と気づき、私は「どうぞ祈って。私たちみんなのために」と頭を垂れながら言いました。

イエスはルカの福音書18章で、ふたりの男性が神殿で祈るたとえ話をされました(9-14節)。私たちもこのパリサイ人のようになることがあります。自分を誇り(11-12節)、他人を批判し、人を変える責任が自分にあるかのように振舞います。

しかし、イエスの聖なる生活を模範とし、イエスが良いお方であることを体験すると、神のあわれみがどれほど自分に必要なのか、あの取税人のようにはっきりと見えて来ます(13節)。神の愛とあわれみ、赦しを体験するとき、私たちは永遠に変えられます。人を責めるのではなく、あわれみを期待する力を与えられます。