Month: 2月 2018

津波のあとで

津波がスリランカを襲いました。約4万人が亡くなり、何十万人という人々が避難生活を余儀なくされています。私はこの文章を、津波の数日後に書いています。惨事が起こった日のちょうど一週間後にスリランカを発ち、本の執筆のために3週間の休暇をとる予定でした。津波の災害はあまりにも衝撃的であったため、初めのうち私たちはどうしてよいか分かりませんでした。最初の二日間は、予定通り出発できるだろうと思っていました。しかし、冷静さを取り戻した現在、こんな状況の中でまだ旅に出ることを考えていた自分に驚いています。今はクリスチャンにとって、国民の痛みをともに分かち合うべき時です。私は今、この国を去ることはできません。

このような状況になると私たちは、聖書の中に励ましと導きを見つけようとします。そして聖書が、私たちに多くのことを語りかけていることを見出します。この小冊子は、スリランカのクリスチャンたちが今、何をすべきか、ということを聖書に基づいて私なりに考えてまとめたものです。さらに原文を改訂し、津波に限らずどのような惨事に直面している人にも役立つようにと考慮しました。

嘆き悲しむべき時

聖書にはこう書いてあります。「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある」(伝道者の書3:4)。津波被害のただ中にある今は、泣く時、嘆く時です。

聖書の中には、悲しみの歌がたくさんあります。神の忠実な民が自分たちの状況を嘆き、なぜ神はこのようなことが起こるのを許されるのかと、疑問を投げかけています。これらの歌には、個人的に苦しみの中にある人々の歌と、国を愛する人々が国にふりかかっている災いを見て嘆いている歌があります。旧約聖書の「哀歌」では、一巻の書簡を通して、民の苦しみに対するエレミヤの嘆きがつづられています。

エレミヤはこう叫んでいます。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」(エレミヤ9:1)。彼は自分の魂の痛みゆえに泣こうとしました。エレミヤの語ることばは、 泣くことは魂の痛みに癒しをもたらすことを示しています。

家族や地域社会、あるいは国のことで心を痛める時、その悲しみを溜め込まずに表現するなら、前向きになって人の役に立つことができます。

ネヘミヤがしたことも、これと同じでした。エルサレムの惨状を耳にした時、彼は泣き、何日も嘆き、断食し、祈り、ついには王が彼の深い悲しみの表情に気がつくまでになりました。しかし、この嘆きの期間が終わった後、ネヘミヤは行動を始め、2,500年を経た今も、そのすばらしい指導力が偉大な模範として語り継がれる国家的英雄となったのです。

聖書の中で、人々はいろいろな方法で嘆きを表しています。断食(Ⅱサムエル 1:12)、荒布をまとう(創世記 37:34、Ⅱサムエル3:31)、灰をかぶる(エステル4:1-3、エレミヤ6:26、25:34)などです。私たちは嘆きを表すのに、自分自身の文化においてふさわしい表現を見つける必要があります。家族や教会、地域社会、あるいは国全体が悲劇に見舞われたとき、断食して祈るのは望ましいことだと言えるでしょう。 一方、スリランカでは津波のあと、嘆きを表すのに白旗を掲げました。それぞれの文化は、悲しみを表すのに独自の表現方法を持っています。

スリランカに初めてプロテスタントを伝えたのは、西ヨーロッパの宣教師たちです。歴史的に見て、この宣教師たちは人前で感情をあらわにすることはありませんでした。そのため、今でもスリランカでは、私たちプロテスタントのクリスチャンは嘆きを表向きに表すという習慣がありません。しかしスリランカでも、ポルトガルから最初の宣教師たちが来たローマカトリックの人たちは違います。彼らのお葬式は、まるで聖書に出てくるドルカスが亡くなった場面のようです。「やもめたちはみな泣きながら、彼(ペテロ)のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」(使徒9:39)。プロテスタントである私たちも、聖書的な理解に沿いつつ、私たちの慣習に合う嘆きの表現方法について真剣に考える必要があります。

なぜかと問うべき時ー神の主権をどう考えるか

なぜこんなひどいことが起こるのか、と神に問うことは、非常に聖書的です。聖書は私たちに、この疑問と真っ向から取り組むように励ましています。ヨブやエレミヤ、詩篇の筆者たちがそのよい例でしょう。ヨブはなぜこんな事が自分の身に起こっているのかを理解するまで、長い間苦しみました。たいていの場合、神の民はこのような疑問との格闘の後に、こう断言します。神は主権をもって何が起こっているかをご存知なので、最も賢いことは、この神に信頼し続けることだと。これは詩篇の中によく見られます(詩篇73篇など)。

惨事の時に神の主権を信じるならば、苦しみの中にあっても私たちは希望を失いません。どのように悲惨な出来事であっても、神を愛する人々のためには、そこから益をもたらしてくださるという神の約束に信頼すべきです(ローマ8:28)。

このように神の主権を理解することは、すぐにはできないことかもしれません。時に私たちは、葛藤の中で神と格闘する必要があります。このような時には、祈りと神のみことばに聞くことが大切です(詩篇27)。災害からの復興や、被害を受けた人を助けるのに忙しい最中かもしれませんが、神と神のみことばに接する時間を見つける必要があります。どんなに難しい状況であっても、神の民がともに集まって礼拝を守らなければならない理由は、ここにあります。一緒に礼拝する時、私たちは永遠の霊的真理に目を向け、神の主権を思うことができます。霊的真理に触れることは、絶望に陥ることなく、私たちを助けてくださる神に信頼する力を与えてくれます。神とそのみことばによって慰められ、力が与えられ、それによって私たちは苦しんでいる他の人たちを助けることができるようになります。

なぜかと問うべき時ー被造物のうめき

アダムとイブが神に対して罪を犯したため、罪がこの世に入り、この世界は本来の姿を失いました。聖書はこれを、被造物がのろいの下にあると表現しています(創世記3:17、ローマ8:20)。そのため、やがて神が新しい天と新しい地をもたらすまで、自然災害は起こり続けるでしょう(Ⅱペテロ3:13、黙示録21:1)。パウロは「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と言っています(ローマ8:22)。そして彼は、キリストを知る者たちも、ともにうめいていると言います(23節)。被造物のうめき、そして神の民のうめきというものを、津波という惨事を通して私たちは明らかに感じることができました。

クリスチャンは、うめき苦しむ方法を身に付けなければなりません。そうでなければ、問題が起こってそこで働くよう神が召された時、私たちは神の御心から逃げ出して、安全な場所へ行ってしまいたいという誘惑を受けるでしょう。うめくことが、困難に対処する上で役に立ちます。

ローマ人への手紙8章で言われているうめきは、「産みの苦しみ」と描写されています(22 節)。出産の痛みを耐える女性は、子供が生まれてくる喜びの瞬間を待ち望むからこそ、その痛みに耐えることができます。

同じように、私たちのうめき苦しみは、確かに来る栄光に満ちた時を思い起こさせます(Ⅱコリント5:2-4参照)。その時を待ち望むことで、神が私たちを置かれたその困難な状況から逃げ出さないでいられるのです。天において、苦しみから永遠に解放される時が確かに来ることを知っているので、私たちは困難に耐えることができます。

うめき苦しむことは、私たちが経験した痛みから来る苦い思いや憎しみを取り去ってくれます。神と神の民の前でうめくことを身に付け、心の中に苦しみをため込まないことが大切です。そうする時、私たちは感じている痛みを表に出し、悲しい経験の中で積み重なってくる心のひずみを解き放つことができます。そうすれば、苦い思いや憎しみが大きくなることもないでしょう。

私たちがうめくことは、神が私たちを慰めてくださる機会にもなります。神が直接、また友人を通して間接的に慰めてくださいます。 真の慰めを得る時、私たちの経験する愛は心の苦い思いから出る怒りを取り去り、憎しみに満たされることはありません。

スリランカが国として津波の被害にうめくとき、私たちは個人としてもうめいています。そこには、なぜこんなことが起こったのですかと、神に問ううめきが含まれています。この世界を治めておられるのは神である、という確信を心の奥深くに持っていてもです。

なぜかと問うべき時ー神のうめき

聖書が神について教えている中で最も驚くべきことは、私たちがうめく時、神も私たちともにうめかれる、ということです(ローマ8:26)。神は私たちの痛みを感じることができないほど、遠く離れてはおられません。イスラエルが苦しんでいた時、神も苦しまれたと聖書は語っています(イザヤ63:9)。実際神は、ご自分を認めもしない人々のために嘆き悲しまれます(イザヤ16:11、エレミヤ48:31)。これは、神は遠い存在で私たちにかまってもくれない方だという、一般的な考えとはまるで違う教えです。

神であるイエスはこの地上に来られた時、この世界の痛みを見て嘆き、うめきました。ですから神がうめかれる、ということは不思議なことではありません。イエスはエルサレムのかたくなさと、やがて来るさばきのために泣きました(ルカ19:41-44)。イエスはまた、友人であるラザロの墓の前で、泣いている他の人たちとともに泣きました(ヨハネ11:33-35)。ですから私たちは、こう言うことができます。神は、泣いているスリランカの人たちとともに泣いておられます。

神は泣いておられる。だから私たちは、もっと積極的に泣いてよいのです。しかしさらに大切なのは、神が私たちとともにうめいておられることを知るなら、私たちの身に起こったことで神に対して怒りを抱くこともなくなる、ということです。また、私たちが途方にくれた時、慰めを求めて神のもとへ行く励ましにもなります。

なぜかと問うべき時ーこれはさばきか?

このような惨事が起こった時によく聞くのは、これは神のさばきなのではないか、という質問です。中には、これはクリスチャンを迫害した人々へのさばきだと言う人さえいます。未信者だけでなく何千人という善良なクリスチャンたちも犠牲になったことを考えれば、そんな主張に対しては大きな疑問を抱かざるをえません。

スリランカでは普通、教会出席者数がいちばん多いのはクリスマスの日です。津波はクリスマスの次の日、礼拝が行われている時間に襲ってきました。 多くの人たちは前日にもう教会へ行っており、クリスマスのお祝い事もあって、ほとんどの教会では礼拝出席者があまり多くありませんでした。教会の建っている場所のおかげで、礼拝に出ていた人たちが助かり、家にいたために亡くなった、というケースがありました。その一方で、礼拝に出ていた忠実な人たち(ほとんどが女性と子供)が亡くなり、助かったのは3人だけ。ところが礼拝に行かなかった男性たちは助かった、という教会のことも知っています。

イエスがこの世界に来られた時、誰もが味わうのと同じ苦しみを経験されました。それこそが、イエスが人となられたことの重要な点でした。同じように、イエスに従う者たちも、手を差し伸べようとする人々と同じ苦しみを通る必要があります。津波からの復興は、私たちすべてにこの機会を与えています。津波の被害で苦しんでいる人々の中に多くのクリスチャンが含まれるということは、私たちにとって意義のあることです。私たちは彼らのうめきを通して、この国の人々とひとつになることができるからです。

イエスは当時起こったふたつの惨事についてコメントしていますが、そのみことばはとても興味深いものです。イエスがやがて来るさばきについて話しておられた時、ある人たちがやって来て、ガリラヤ人たちがいけにえをささげていた時に、ピラトによって殺されたことを知らせました。多分このことを話した人たちは、これは神のさばきだとでも言いたかったのでしょう。でもイエスはそのような考えを否定してこう言いました。「そうではない。わたしはあなたがたに言います。 あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ13:3)。それからイエスは、塔が倒れて18人が犠牲になった事故のことに触れ、もし悔い改めないなら 「みな同じように滅びます」(5節)と話しました。同じ警告を3節と5節で二度繰り返すことは、この警告が差し迫ったものであることを示しています。

私たちはこのような惨事を、悔い改めないならもっと大変な事態に直面することへの警告だととらえるべきだ、というのがイエスの言っておられることです。同じように、津波のような災害も、私たちすべてに差し迫った警告を与えています。それは、私たちがいかに弱い存在であるかということを思い知らせます。私たちは、死とその後に続くさばきに直面する準備ができているだろうか。このような災害に直面する時、私たちはすべてのものを統べ治め、自然をも支配する神の前にへりくだり、この神に従うようにと導かれます。

聖書に出てくるさばきに関する記事は、そのほとんどが神の民に向けられていることを忘れてはなりません。神との契約の外にいる人々へのさばきに関する記事は、 わずかしかありません。人々は、神に対する反逆のゆえにさばかれる。そのさばきから救われるためにはどうしたらよいか、そのことを何とかして彼らに知らせなければなりません。しかし、ある出来事をとりあげて、それを私たちの敵に対するさばきだと決めつけるのは危険です。聖書に明確に教えられていること、つまり、 私たちを迫害する者のために祈り(マタイ5:44)、彼らを祝福しなさい(ローマ12:14)という命令にこそ従うべきです。

津波の後、クリスチャンのグループがある施設を訪ね、敷地のがれきを取り除く手伝いをしました。その施設の責任者は、このクリスチャンたちを迫害していた人でした。この人は彼らの行動にいたく感動し、クリスチャンたちに今まで迫害してきたことを謝りました。

私が聞いた話では、あるクリスチャンたちは、神に反逆しているこの国を神が打ったのだと言って勝ち誇っているそうです。彼らに対して私は言いたい。聖書によれば、神はご自分が懲らしめる人々のことを悲しんでおられます(イザヤ 16:9、エレミヤ48:32-36、ホセア11:8-9)。だから、もし仮に津波が神からの罰であったとしても、私たちは嘆くべきであって、決して勝ち誇ったように言うべきではありません。

エレミヤは、ユダヤの人々が神への反逆のために罰せられることを預言しました。 そのため人々は彼を迫害しました。しかし預言どおりに彼らが罰せられた時、エレミヤは決して嬉しそうに「ほら、そう言っただろう!」とは言いませんでした。彼は自分の民のために嘆いたのです(エレミヤ 9:1)。実際彼は、もし人々が悔い改めなければ彼自身が悲しみに満たされるであろうことを、すでにさばきの前から分かっていました。エレミヤはこう言っています。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ」(エレミヤ13:17)。

クリスチャンを迫害したり軽蔑したりする人たちを祝福するためには、エレミヤの模範にならうことです。私たちは彼らが、そして全ての人が、やがて来るさばきの日に創造主の前に立つことができるよう、あらゆる手を尽くすべきです。

専門家たちは津波を予測できたはずなのに、なぜ警報を出さなかったのかという批判の声もあります。どうか私たちが、やがて来る神のさばきについて人々に警告するのを怠りませんように。

働くべき時

クリスチャンにとってはどんな災害も、行動するようにとの神の呼びかけです。私たちは神の愛によって強められ(Ⅱコリント5:14)、聖霊によって力を受けるので(使徒1:8)、苦しむ人々に対して大きな影響を与えることができるように特別に整えられます。

惨事に際してクリスチャンは、ただちに働き始めるべきです。初代教会のクリスチャンたちは、自分たちの間にある必要を知った時、すぐにその必要を満たすために働きました(使徒4:34-37)。アンテオケで生まれたばかりの教会が、エルサレムで起きたききんのことを聞いた時、彼らはすぐに、自分たちのできることをして助けました(11:28-30)。このようにして、クリスチャンたちは歴史を通していつも救援活動の最前線で活躍してきました。

今私たちは、あまりにも大きな必要がある状況に直面しています。第二テモテ2章でパウロはテモテに、クリスチャンとしての奉仕の働きについて教えています。これは私たちにとっても大切な教えだと思います。この個所を見ながら、私たちの置かれている状況に当てはめて考えてみましょう。

「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」(Ⅱテモテ2:3)。パウロはここで、テモテの奉仕の働きを苦しみと表現しています。福音のために苦しむことがパウロの日常であったことを考えると、彼がこう言うのもうなずけます(Ⅰコリント15:30-31、コロサイ1:24-29参照)。そしてこれは、苦しみに満ちたこの世の中に生きるすべてのクリスチャンに対する呼びかけであり、自分たちの国に仕え、苦しむようにという呼びかけです。

忠実なクリスチャンは神と自分の国に仕えようとする時、様々な苦しみに遭います。その苦しみの多くは間接的なものです。例えば、救援活動に従事する夫を持つ妻は、彼がその働きに専念することを許す必要があるでしょう。しかしこれは結婚生活に影響を及ぼし、彼女にとっても大きなストレスとなることがあります。

救援活動で連絡係として、電話やメールのやり取り、報告書を書くことで忙しくしている女性の婚約者は、彼女と一緒にいる時間があまり持てないかもしれません。一緒にいる時でも、彼女は疲れてイライラしているでしょう。

でも、私たちの苦しみが神への奉仕のためであると気づく時、それは痛みをやわらげ、 怒りを静める助けになります。苦しみの中には、もっと直接的なものもあります。体の疲れ、睡眠不足、働きの動機に対する批判や、働きの方法に対する非難などです。

3節から後でパウロはテモテに、苦しみに対する心構えを説明しています。「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません」(Ⅱテモテ2:4)。このような時、人々に奉仕する働きにつくためには、一般の人たちが必要だと思っている何かをあきらめなければならないでしょう。非常事態においては、非常手段が必要です。この危機に際して人々のために働こうとするなら、皆が何かを犠牲にしなければならないことを、家族に対しても話しておく必要があります。

もちろん、家族生活は大切です。家族とのつながりは、どんなことがあっても欠かしてはなりません。しかし危機に直面している時には、いつもとは違うやり方が求められるかもしれません。

例えば、私の結婚記念日は津波の数日後でした。疲れ果てている中、私の子供たちも夜遅くまで救援活動のために働いていました。この国で多くの人々が困窮の中にいる時に、記念日だからといってお金をかけることを私の妻はためらいました。でも夕食のため何とか家族全員を集め(夜9時半頃!)、安いけれどおいしい食事を出すレストランへ行くことができました。おいしい食事を4人で食べても、全部で600円ほど。このような状況の中で高いレストランへ行くことは、ふさわしくないと思ったのです。それでも家族と一緒にお祝いをすることができました。

パウロはこの苦しみを、農夫が一生懸命働くようなものだと言っています(Ⅱテモテ2:6)。またパウロは、「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1:29)と言いました。滅び行くこの世界でキリストを証するよう召されていることの緊急性を考えると、私たちはこの地上で生きている間は、常に熱心に神に仕えて働く必要があります。やがて私たちは、天において全き休息に入ります(黙示録 14:13)。今は働く時です。

インドで恵まれない子供たちのために働いた、偉大な宣教師であるエミー・カーマイケルはこう言っています。「私たちには勝利を祝うのに永遠の時間がありますが、彼らを勝ち取るために残されているのは、日没前のたった数時間だけです。」津波の直後である今、スリランカのクリスチャンの多くはとても疲れています。けれどもそれは、仕方のないことです。この国がこれほど大きな緊急事態に直面しているのですから。

私たちにとって今は、母国の民のために苦しみ、一生懸命に働き、何も持たない人たちを助けるために、自分の持っている何かをあきらめる時です。今、この時にたゆむことなく働かなければ、それは大変な間違いとなるでしょう。アモスは自分の国が危機的な状況にあるのに安楽に遊んでいた人たちに対して、さばきを宣告しています(アモス6:1-6)。ダビデは本来、王として戦いに出ているべき時に罪に陥りました。彼はその時、家にとどまっていたのです(Ⅱサムエル11:1)。

第二テモテ2章の8~13節でパウロはテモテに、神への奉仕の働きで苦しむなら、どんな祝福が待ち受けているかを教えています。11節と12節を見てみましょう。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」しかしここには、警告もあります。「もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:12b-13)。

このみことばは、やがて来るさばきが厳然たる事実であることを思い起こさせます。奉仕の業には報いがあり、不従順には罰がある。この真理は、クリスチャンとして生きる上で私たちが行うあらゆることに影響を与えます。

やがて、私たちが個人的な犠牲を払って行った、あらゆることが報われる日が来ます。あとの者が先になります(ルカ13:30)。私たちが行ったことが、他の人たちの功績のように言われる時でも、腹を立てたりしてはいけない理由がここにありま
す。この世で何の報いも受けられないようなことでも、喜んで行う理由がここにあります。どんなに取るに足らないと思える仕事であっても、小さすぎる仕事はありません。神が私たちに、しもべとしてそれを行う力を与えてくださるからです。それは汚いトイレを掃除することかもしれません。膿んだ傷口を処置することだったり、ゴミを片付けることかもしれません。私たちはそれをする力を持つだけでなく、このようなことを素晴らしい特権だと思うことができます。

津波の直後、多くのクリスチャンがすすんで、世間では卑しい身分の人々がするとされている仕事をしました。私は大きな喜びをもって、それを証することができます。実際、何人かは身分差別を支持する人たちから冷たくあしらわれました。彼らは傷付き、私も怒りました。しかし彼らは働きをやめず、私は神を賛美しました。他の人のしたがらない仕事をし、しもべとして仕えることができるのも、キリストの愛が私たちのうちにあるからです。私たちは神の国の王子、王女であり、さばきの日に誉れを受けることを知っています。災害の時こそ、クリスチャンがしもべであることを証する時です。

新しい普通

聖書のみことば:ローマ6:1-11

キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。—ローマ6:4

癌を宣告されたとき、医者の言葉を聴こうとしましたが耳に入りませんでした。家に帰ると、頭まで毛布をかぶって眠りました。悪い夢ならさめてほしいと願いながらです。

何とか気を取り直してそのことを親しい人に告げたとき、友人のジュディーは同情してくれましたが、次のようにも言いました。「これから、こういうことが起こるのよ。まず3 日間は、すごく落ち込むわ。その後、しゃきっとして、すべきことは何かを考えるようになるの。それから、淡々とそれをこなして毎日を生きていくのよ。」さらに続けて、こうも言いました。「これは、死、葬り、復活と関係していると思うわ。」

私は当時、彼女の言葉を信じませんでした。私が思うところの人生は、もう終わったと確信していました。何もかもが変わってしまって、普通の自分でいられるなどとは想像さえできません。けれども、彼女が正しかったのです。3 日目の朝に目を覚ました時、それほど気分が悪くないことに気づきました。それから、化学療法のために身体はつらくても、感情面と霊的な面においては少しずつ改善し、かなり良い線をいくようになりました。私は古いリアリティーに「死」に、新たな「普通」のなかに「復活」したのです。

感謝すべきことに、神は復活の神です。キリストを信じて死んだ人々にとって、死という現実は、栄光に満ちた新しい「普通」の中に復活することを意味します。ですから、私たちは「いのちにあって新しい歩みをする」(ロマ6:4)ことができるのです。

「キリストにあって」生きることは、イエスの人生、死、そして復活を分かち合うことだ。

復活といのち

聖書のみことば:Ⅰコリント15:1-11

わたしは、よみがえりです。いのちです。—ヨハネ11:25

イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われました(ヨハ11:25)。大胆な発言をしても、それを裏づけする行動がなければ何にもなりません。イエスは、実際に死からよみがえられて、ご自分の発言が真理であることを証明されました。

ジョージ・マクドナルドは「もし、神の子が死んでよみがえったと信じるなら、あなたの将来は、人生という丘の向こうから永遠に沈まない太陽が昇る夜明けのようだ。そのような希望は、最高の想像力に恵まれた詩人の心にさえ思い浮かばない」と書いています。

神の御子は、死んでよみがえられました。イエスの復活は、神が私たちをも死からよみがえらせてくださることの保証です。私たちは、考えたり、感じたり、記憶したり、理解したりする存在として永遠に生きるのです。

永遠に生きるとは、神が与えてくださった、永遠を思う心で今を生きるということです。また、死に別れた信仰の友と再会することであり、悲しみのない世界に住むことであり、すべてを捨てて私たちと永遠にひとつになってくださったイエスにお会いすることです。

もうひとつ言えることがあります。それは、今の人生だけでなく、次の人生もあるのですから、今が完全である必要はありません。しばらくは、完全に健康とは言えなくても大丈夫ですし、困難、孤独、貧困、心痛にも耐えていけます。なぜなら、よみがえりのいのちがあるからです。それは、天の御国で永遠に生きるいのちです。

復活が私たちの信仰の基だ。