どこに愛を見つけることができますか?
もしあなたが、「どこに本当の愛を見つけることができますか。」と心から尋ねているのなら、良い知らせがあります。あなたは、すでに愛されています。聖書のもっとも有名な一節はこう語ります。
「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
信じる人たちに対して、キリストは神の愛の広さを述べられました。弟子たちに、次のように言われました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31~33)
人を愛することにはリスクが伴いますが、このように愛されているなら自分の立場は安全だと信じて、リスクを顧みることなく愛することができます。
あなたは、自分を愛してくださるキリストに出会いましたか。このお方と知り合い、このお方の愛を受け入れるために、第一歩を踏み出しましたか。キリストに自分をゆだねる決心をしましたか。聖書は、あなたの罪のためにキリストは十字架で死なれた、と語ります。このことを信じますか。
ここが出発点です。自分の罪を自覚し、キリストが自分の人生にとって必要不可欠だということを理解しましょう。キリストは失われた人を捜して救うために、この世に来られました(ルカ19:10)。このキリストに、神の愛を見出します。そして、このキリストに、パウロが語る本当の愛を実践する人生を見ます。キリストは、単に高い道徳基準を目指して生きるようにと私たちに促しておられるのではありません。むしろ、私たちの人生の中にご自身を現わそうと、私たちを招いておられるのです。
今、世界が必要としているもの
米国に「今、世界が必要としているものは愛。甘い愛。」と歌う往年のヒット曲があります。その歌は、「制覇する山も川もいらない。世界に必要なのは愛。特定な人だけではなく、みんなを愛する愛。」と訴えました。当時の若者たちは、この歌を大合唱しました。
多くの人は、このテーマに共感するでしょう。私たちは、クリスマスや大切な人の誕生日にプレゼントを贈り、台風や地震などの被災者に義援金を送ります。また、生活に困っている人に手を差し伸べるボランティア活動を尊いと思います。
さて、75歳のラッセル・プレイサンス氏は、地元の新聞に掲載されていた貧しい家族のことを読んで、ささやかな愛を贈りたいと考えました。そこで、食料品と子どものオモチャ、そして少しばかりのお金を持って、その家族を訪ねたそうです。
このプレイサンス氏の親切は、とんでもない事件を引き起こしました。何と、その家の主人が、数日後、プレイサンス氏にナイフを突き付け、財布と車を奪ったのです。
プレイサンス氏の例を挙げるまでもなく、私たちは愛の乏しい世の中に暮らしています。愛が愛を生むのなら、愛はみんなにゆきわたるでしょう。「最後に愛は勝つ」のが現実なら、もっとたくさんの人が、どんなに苦しくても愛を実践しようと思うでしょう。しかし、愛は必ず報われるわけではありません。また、自分が愛に報いようとするときでさえ、自分の都合のいいように愛を解釈しています。というのも、愛の意味は人によってまちまちで、例えば次のようなことを意味するからです。
- 一時的な感情
- 性的な関係を曖昧に言うこと
- 人のために犠牲を払うこと
- 批判せず受容すること
- 気持ちを隠さずに率直であること
愛はキラキラと輝くもの。
愛は英語でLOVEですが、日常会話で以下のように使います。
“I love blue.”(青が好きです。)
“I love my children.”(自分の子どもたちを愛しています。)
“I love Hanshin Tigers.”(阪神タイガースの大ファンです。)
“I am in love.”(私は恋をしています。)
この例からお分かりのように、LOVE(好きだ。愛している。)とひとことに言っても、その意味はいろいろです。いくつものニュアンスを持っているので、たとえ、ふたりの人間が「愛」を誓いあったとしても、その誓いの中身である「愛」に対する認識が、完全にずれている危険性があります。同時に、「愛」は非常に抽象的で曖昧なものだから、そんなものよりもっと大切なことがあると考える人もいます。
しかし、聖書は「愛」の重要性を明言しています。使徒パウロは、怒り争っていた人々に、次のように書き送りました。
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)
この手紙は、献身や犠牲の大切さを知っている人たちに宛てて書かれたものです。コリントの教会の人たちは、信仰、知識、霊の賜物、強い指導力、そして熱いメッセージの重要性をよく心得ていました。
この人たちの問題は、今日の私たちの問題とよく似ています。つまり、自分の関心事だけに一生懸命になってしまい、信仰と霊的な知識が本来目指すべきゴールを見失ってしまったことです。人は神のみこころから離れて聖霊の賜物を探求したり、聖書を学んだりすることもあるのに、彼らはうっかりしていました。自らが満たされることを求めるあまり、一番大切なものを忘れかけていたのです。
本当の愛のしるしーその三
本当の愛は「自分の利益を求めません。」
無私無欲について説明するとき、パウロはこの表現を最も好みました。自分の利益を求めない人とは、関心が外向きの人です。そのような人は、自分のことに集中しすぎないので、他の人の必要や利益に心を配ることができます。
パウロは、ピリピ人への手紙2章でも、この愛の原則について言及しています。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり...何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:1、3~4)
これらの記述は、キリストを信じる人たちの心がひとつになるようにと、パウロが心から願っていたことを表しています。しかし、それが夫婦であれ、親子であれ、教会内やその他のどんなグループの人間関係であっても、自分たちの思いだけでなく他の人たちの気持ちに配慮しなければ、クリスチャンの心がひとつになることはありません。
自己犠牲は、私たち人間の持って生まれた性質とは相反した行為です。それは、キリストの心(ピリピ2:5)です。キリストは、ご自分を低くされました。天の御座を去って限界のある人間になり、ご自分を拒む者たちの僕となられました。ご自分を見捨て逃げる弟子たちの足を洗い、ご自分のいのちを捨てる価値などない人間の罪をあがなうために、十字架にかかって死なれました。本当の愛の実例を、このイエスの他に見つけることができるでしょうか。イエスは、自分のことを通り越して他の人のために尽くす、本当の愛の姿を見せてくださいました。
本当の愛は「怒りません。」
パウロが本当の愛を定義するために使った次の言葉は、簡単にイライラしたり、とげとげしくなったりしないという意味です。言い換えれば、すぐキレないことです。これは、愛の第1番目の原則である「寛容」に似ています。
私たちは、この愛の特徴を簡単に忘れてしまいます。夫婦は、結婚してわずか数年で、 相手にカッとしやすくなります。親は苛立つと、子どもを怒鳴りつけます。職場では、当然の権利が奪われたと、従業員がさわぎます。公務員が汚職をすると、人々はひどく怒ります。
なぜ、私たちは 「ムカつく」のでしょう。私たちは、ときどき腹の中が煮えくり返るという経験をしますが、それは欲しいものを欲しいときに手にしようと主張しているのに、「後で」などと応じられるからです。癇癪は、自己中心性の確固たる証拠です。しかし、逆の例もあります。自分本位が理由で怒っているのではなく、愛のために憤りを感じるというときです。使徒の働き17章16節がその例です。
「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」
この場合、パウロの怒りは愛によるもので、当然とも言えました。パウロは、シラスとテモテを待っているうちに、アテネの偶像崇拝について見聞きしました。そして、人々が似非宗教にだまされ傷つけられていると思うと、心の中に怒りがじわじわと湧き上がってきました。
もうひとつ例を見てみましょう。イエスは宮の両替人のテーブルをひっくり返されましたが、そのとき、心の底から怒っておられました。愛に満ちたイエスは、「祈りの家」にあった異邦人の庭を台無しにしてしまった商業主義を怒られたのです。イエスは、祈るための静かな場所を奪われた異邦人を気の毒に思っておられました。愛が欠けていたために過剰に反応されたのではありません。むしろ、愛に溢れていたために、神が愛しておられる人々を困らせる悪習慣を怒られ、あのように行動されたのです。
アテネのパウロやイエスの宮きよめの行動は、怒るべきときもあると私たちに教えます。しかし、怒りは愛をもって示さねばならず、怒っても罪を犯してはいけません(エペソ4:26)。
本当の愛は「人のした悪を思いません。」
パウロは、無視することを奨励しているのではありません。「見ざる、言わざる、聞かざる」という伝説上の猿を模範にしているのではありません。ここで使われている単語は、経理の専門用語で「統計する」とか「帳簿に書き込む」という意味です。また「悪」とは、他人から受けた傷を意味します。
「人のした悪を思いません」と言うとき、それは、仕返しをする目的で傷つけられた記録をとどめておかないことを意味します。別の言い方をすれば、本当の愛は、たとえ相手が悪くても、その人に対して長年、恨みを持ち続けたりはしません。借りは返してもらおうと相手の間違いを記録しつづけるなら、自分の借りも払いきれないほど大きくなるでしょう。私の教会には、25年間も絶交している人たちがいます。残念なことに、この人たちは、違いを乗り越えて和解しようとは思っていません。
自分の罪を認めて赦しを請う人を赦すとき、人は最も神に似せられると言われますが、 もしそれが本当ならば、自分の間違いを認めて哀れみを請う人に遺恨を持ち続けるなら、私たちは、自分を救ってくださった神から最も遠いところにいるのです。相手の失点を覚えておくのはスポーツではよいことですが、愛を実践するためにはよくないことです。
本当の愛は、相手の間違いを記帳したりしません。というのは、神が自分とともにいて、すべてを与えてくださると安心しているからです。すべての結末は、神の御手の中にあると知り、また、私の必要は神に知られていると信じているなら、他人の落ち度を自己防衛のために記録する必要はありません。
本当の愛のしるしーその二
本当の愛は「自慢しません。」
愛は自分の業績を自慢しません。自分の成功をひけらかしません。言葉巧みに自己宣伝をしようとはしません。
この考え方は、旧約聖書の中にあります。ソロモン王は、次のように語りました。「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。」(箴言27:2)簡単に言えば、本当の愛は、自分にスポットライトを当てないということです。
この愛の特性は、ねたんだり嫉妬したりしないことの裏返しです。嫉妬は、人が持っているものを欲しがります。自画自賛は、自分の持っているものをひけらかして相手の嫉妬を誘います。嫉妬は相手を引き落とし、自画自賛は自分を引き上げます。
本当の愛は、他人の成功を心から喜ぶだけでなく、自分に成功が与えられたときに、それをどう取り扱うかよくわきまえています。私が聞いたところによれば、逆境を乗り切れる100人のうち、成功しても自分を制することができる人は10人ほどだそうです。
この論理は、激しい競争社会で生きている人たちに疑問を抱かせます。自己啓発の本によれば、他人を追い抜くためには成功した人のような立振舞いを身につけ、自分の能力が目立つようにうまく自己宣伝しなければならないと言われています。
「本当の愛は自慢しない」という原則は、クリスチャンにとって何を意味するのでしょう。求職中のクリスチャンが、履歴書に自分の長所を列挙し、パリッとしたスーツを着て面接に臨み、将来有望だと思ってもらえるよう努力するのは誤りなのでしょうか。
米国メジャーリーグのフロリダ・マーリンズが、ワールドシリーズ初出場を決めたとき、 マスコミは、ジム・リーランド監督を賞賛しました。しかし、リーグ初優勝を称えられたリーランド監督はこう答えました。「勝ったのは、私ではありません。私は1球も投げなかったし、ホームランも打ちませんでした。ファインプレーをしたわけでもありません。優勝したのは選手たちです。私ではありません。」なんという謙虚な態度でしょう。見ている人たちにとって、謙虚な勝利は、潔い敗北と同様、気持ちのよいものです。
本当の愛は「高慢になりません。」
ここで使われている単語は、「ふいごのように自分を膨らませる」という意味です。パウロは、本当の愛とは正反対の特質を「高慢」という言葉で記述し、愛のないコリントのクリスチャンたちに「一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」(Iコリント4:6)と書き送っています。この部分では、コリントのクリスチャンは自信過剰で、他の人たちの痛みを感じようとしないことが言及されています。また、人の援助を謙虚に受けようとしない高慢さは、援助すべき人がいるという事実から目をそむけさせることも示しています。
近代の福音宣教の父と呼ばれるウィリアム・ケリーは、謙った愛のすばらしい実例です。彼は優れた言語学者で、34にも達する言語や方言の聖書翻訳に尽力しました。しかし、彼は自分の出発点が身分の低い家庭であったことを心に留めていました。彼は、イギリスの庶民の家に生まれ、若い頃は靴修理の仕事をしていました。福音宣教を志してインドに渡ったとき、彼の身分の低さと前職は人々の嘲笑の的でした。ある晩餐会に招かれたとき、出席者のひとりが彼の身分に賓客の注意を引こうとして、「ケリーさん。あなたは昔、靴職人だったそうですが。」と質問しました。すると、ケリーはこう答えました。「いいえ閣下。靴職人ではありません。ただの靴の修理屋です。」
自分を過大評価している高慢な人は、自分の気持ちや自分の意見、自分の幸福や自分が得をすることばかりを気にかけます。高慢な人は、人の気持ちや人の必要を平気で無視します。
新約聖書は、本当の愛は自分の必要を無視する、とは教えていません。ただ、自分の利益が他人の利益以上に大切ではないことを忘れないようにと教えます。私たちの優先順位が自分や自分の家庭である場合が多いのは仕方のないことですが、自分たち以外の人の利益やその人たちの家庭についても心を配るべきです。
自分だけが大切だという感覚になっているかどうかを知るために、最初に目をつけるべきものは祈りです。あなたは、自分の生活や自分の仕事の祝福だけを祈っていますか。自分の配偶者や子どものために祈っていますか。また、他の人のためにも祈っていますか。自分や自分の家族が健康で豊かな生活をすることが、隣人の生活以上に大切だとは言い切れません。本当の愛は、そんな高慢を許しません。
本当の愛は「礼儀に反することをしません。」
この聖書個所は、「不作法をしない」(口語訳)「礼を失せず」(新共同訳)と訳されています。この単語が登場する新約聖書の個所は他には1ヶ所だけで、コリント人への手紙第一7章36節(口語訳・新共同訳)です。ここは未婚の男女の関係について書かれているところですが、パウロは神に献身することが一番大事だと強調しながらも、もし男女が性的欲望にかられたなら、「ふさわしくないふるまい」(新共同訳)をせず結婚すべきだと言っています。7章の「ふさわしくないふるまい」と13章の「本当の愛」は、どのように関係しているのでしょうか。
本当の愛の特性は、 相手に対して不当な要求をしないことです。交際相手に「愛しているなら、証明して欲しい」などとは言いません。本当に愛しているなら、その人に嘘をつかせたり、その人のものを奪ったりしたいとは思わないはずです。
「礼を失わない」ということは、兄弟愛を口実に、相手の良心や信条に反することをさせたり、神が定められた道徳に反することをさせたりしないことです。どれほどの不当な要求が、愛という名のもとに、夫や妻、子どもたち、若者、教会員になされてきたか、神はご存知です。最も悪質な性的虐待、ぞっとする隠蔽行為や秘密主義が、家庭や仲良しグループ、様々な組織や団体の中で、愛の名のもとに行われたのです。
パウロは、本当の愛は間違ったことをやらせようと圧力をかけたりはしないと語ります。 本当の愛は、相手の最善を考えます。自分の利益や快楽を求めたり、相手を操ったり支配することは望みません。
本当の愛のしるしーその一
ビートルズは、エド・サリバン・ショーのステージから鮮烈な米国デビューを果たしました。大胆かつ斬新なサウンドで当時の人々を魅了し、「愛こそはすべて」と大合唱させました。しばらくして彼らは解散し、ファンは再結成を夢見ました。後年、ステージが企画され、ビートルズは以前のように愛を歌いました。スタジオでの再会が大きく取り上げられましたが、そこでも「リアル・ラブ(本当の愛)」という題名の歌がキー・ソングでした。しかし、ジョン・レノンが作詞した歌詞は、悲しいものでした。本当の愛こそが人生の目的であり、走り続けた人生の栄冠だと歌いながら、その歌は 「ひとりぼっち」という哀しい心模様で終わります。
ジョン・レノンの歌詞は、彼の世代だけではなく、みんなの心情をとらえています。私たちは、愛を探し求め、ある時はそれを見つけたと思います。しかし、幻滅する時がいつか訪れ、その感情は消えてしまうのです。
愛とはいったい何物なのでしょう。なぜ、これほどつかみどころがないのでしょう。しかし、私たちが使徒パウロの時代に生きていたら、ギリシャ語の単語を使うことで、自分の求めている「愛」が、どんなものなのかを明確に表すことができたでしょう。
エピトウミア(epithumia)という単語は、性愛によって満足させられる欲望を意味しました。エロス(eros)は恋をしているときの感情、ストルゲ(storge)は、何かを守ろうとする強い愛を意味しました。フィレオ(phileo)は、家族や友人を思う気持ちです。もうひとつは、アガペ(agape)でした。このことばは、(ほとんどの場合、神の愛に使われ)、最も深くて純粋な愛を意味していました。
パウロがコリント人への手紙第一13章で愛について述べたとき、彼は「アガペ」という単語を使っています。パウロは、最も崇高な神の愛こそが、私たちのあらゆる愛に永遠の意味をもたらすということを示したかったのでしょう。パウロは、「アガペ」ということばを使うことで、創造主である神の視点で「愛」を表現したのです。それは、次のようなことでした。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(Iコリント13:4~7)
この崇高な愛、「アガペ」をさまざまな角度から吟味するなら、これこそが、私たちが求めている「本当の愛」であることがはっきりします。
本当の愛は「寛容」です。
新改訳聖書で「寛容」と訳されている単語は、原語のギリシャ語では「気長な」というような意味です。聖書辞典では、腹の立つことをされてもすぐに仕返ししたり、相手を罰したりしないことだと説明されています。すぐにくやしがったりしないことだと定義した聖書学者もいます。本当の愛は、仕返しをしません。心の中に恨みを抱え込んだりしません。本当の愛は、心を深く傷つけられた場合でも、耐え忍んで相手を愛します。
不倫や家庭内暴力など、壊れた人間関係に苦しんでいる現代社会は、このような愛を必要としています。本当の愛は、心に痛みや悲しみを感じさせます。そして、それを乗り越えようとしますが、決して仕返しをしようとは思いません。このような愛が、普通なら絶対にできないと言われることを可能にする場合もあります。以下の例は、そのひとつです。
知美さんの夫の和彦さんは、長い間ある女性と不倫関係にありましたが、やがて家庭を捨てて出て行きました。知美さんは、離婚協議の渦中にあっても、何が夫を愛することであり、なぜそうすべきなのかを決して忘れませんでした。知美さんの傷心がようやく癒え、平和な生活を取り戻し始めた頃、和彦さんが勤務中に怪我をして入院したと聞かされました。神はこの事故を用いて、道を踏みはずした和彦さんの目を覚ませられたのです。
ある日、和彦さんから知美さんに連絡がありました。もう一度やり直せないかと尋ねてきたのです。なんという自分勝手でしょう。彼が同じことを繰り返し、彼女を再び苦しませないという保証はどこにもありません。しかし、知美さんは、そのような不安を持ちながらも、和彦さんといっしょにカウンセリングを受けることにしました。そして、女性として最悪の状況を余儀なくされて2年が過ぎた頃、知美さんと和彦さんは再婚しました。
同じ状況の別の女性は、前夫とは良い友人にはなれても再婚はできないと思うかも知れません。しかし、知美さんは、恨むことを自ら否定し、寛容になろうと決意しました。そして、相手は自分を苦しめ自分を捨てた男性であるにもかかわらず、リスクを承知でその人と再婚したのです。
恨まないという強い意志があれば過去の苦しみを簡単に忘れられる、というわけではありません。しかし、本当の愛は、恨みに屈しません。本当の愛は、本当に寛容なのです。
本当の愛は「親切」です。
「君は僕の人生を飾ってくれた」というヒット曲が米国にありました。このラブソングは、日常生活が愛されることによってときめき輝く喜びを歌っています。しかし、本当の愛は親切だと言うその愛は、単なる飾りではありません。ギリシャ語学者のA.T.ロバートソン氏によると、「親切」と訳されているこの単語は、「役に立つ、または、恵み深い」という意味だそうです。Young’ s Analytical Concordance(ヤングズ分析用語索引)も、この単語をto be useful (役に立つこと)およびto be beneficial(有益なこと)と定義しています。言い換えるなら、愛は、親切で恵み深く有益な行動につながるということです。
本当の愛の目的は、相手にとっての最善です。このことを踏まえれば、本当の愛は寛容であるだけでなく、優しく親切でなくてはいけません。優しさは、厳しさ以上に人の良い部分を引き出します。箴言15章1節に「柔らかな答えは憤りを静める」とあるように、実践的で有益な愛とは、相手の欠点ではなく長所を引き出す愛です。
やさしくて「恵みに満ちて」(ヨハネ1:14)いることは、イエス・キリストのような性質だと言えます。イエスは、助けの必要な人々に向かってこう言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28~29)
歴史上、誰よりも強く、誰よりも愛に溢れたお方が、キリストです。このお方は、宇宙を創造する強さを持ち、権力者たちの偽善と利己主義に打ち勝つ知恵もお持ちでした。にもかかわらず、恵みとまことに溢れておられました。
イエスは、私たちに次のことを教えてくださいます。愛には真実が必要ですが、優しさを伴わない真実は、愛とは言えません。愛には寛容が必要ですが、親切を伴わない寛容は、愛とは言えません。本当の愛は親切です。
本当の愛は「ねたみません。」
パウロは、本当の愛は他人の成功や幸福をねたまない、と言います。愛は、「私の手に入らないものを、あなたも手にしてはいけない」とは言いません。むしろ「私は、あなたのように成功して名誉やゆとりある生活を手にすることはできないけれど、あなたがそのように成功して幸せなので嬉しいです。自分ももっと与えられればとは思いますが、あなただけがそんなに与えられるのはなぜだろうとは思いません。」と言うのです。
ねたまないのは、難しいことです。多くの人は、出世のチャンスを奪われたり、仕事の成果を十分に評価されなかったりという経験を何度もしているでしょう。また、自分は日々の暮らしで精一杯なのに、他の人がどんどん裕福になるのを見てきたかもしれません。イエスの弟子たちでさえ、自分たちの中で誰が一番なのかと、繰り返し口論していました。
この不公平な世の中で、ねたまず、忍耐と親切で愛することが簡単だとは誰も思っていません。失業しても落ち込んではいけないとか、人間関係につまずいても悲しんではいけないと、聖書が言っているわけではありません。パウロは、本当の愛があれば落ち込んだり悲しんだりしない、とは言っていませんが、本当の愛があればねたまない、とは言っています。もし、私たちに本当の愛があるなら、自分は苦労しているのに他の人は悠々と暮らしている場合でも、その人に悪意を持ったりしません。
どのようにすれば、慈しみ深く愛することができるでしょう。キリストの御霊だけが、それを可能にしてくださいます。がっかりすることが起こっても、前向きでいられる秘訣は、天の父であり羊飼いである恵み深い神を、深く信頼することです。がっかりすることもあるでしょう。不公平を経験して、信仰と愛が試されるでしょう。しかし、神を信頼することを学べば、たとえ置かれた状況に落胆することはあっても愛することができます。
愛のない町
世界一堕落した無情な町を想像してみてください。人は愛の名のもとに悪事を行い、利己的な野心を満たすために人間関係を利用します。人の生命が奪われることも日常茶飯事です。紀元1世紀のコリントの町は、まさにそういうところでした。コリント人への手紙第一13章の崇高で聖霊に満たされた文面を初めて読んだ人たちは、その町のクリスチャンでした。
堕落したコリントの町と美しい愛の記述は、一見不釣合いです。しかし、これほど適切な組み合わせはありません。コリントの町にあった教会の人々が生き方を改めるためには、本当の愛とは何なのかという原理原則が必要だったからです。
むずかしい社会で生きている人々。
現代人の目から見ても、コリントのクリスチャンは多くの問題に囲まれていました。世間の道徳的な基準は、落ちるばかりでした。一般的な人々の宗教は、ギリシャの愛の女神、アフロダイテ崇拝です。その神殿では、千人もの女性が神殿娼婦として雇われていました。
経済的な発展も誘惑の種です。コリントは、北ギリシャと南ギリシャを結ぶ交通の要所にあり、商業が発展しました。しかし、繁栄が堕落をもたらしました。物質主義と性行為を礼賛する宗教は、快楽を追い求める世相を作りました。
コリントの道徳的堕落は非常に有名になり、ギリシャの人々は、とんでもない不道徳をしたり、酔っぱらって見境のない行動をしたりする人のことを「コリント人のようにふるまう」と言うようになりました。愛についての定義をパウロの手紙から受け取ったコリントの教会の人々は、 このような社会に生きていました。
霊的な意味で虚弱体質の人々。
現代にも通じることですが、コリントのクリスチャンは、不幸なことに、周りの社会に影響されていきました。では、パウロがこの手紙で取り上げたさまざまな問題について考えてみましょう。
- 神の家族である教会の内部分裂(1~3章)
- プライドと霊的高慢(4章)
- 性的乱交(5章)
- 信徒間の訴訟問題(6章)
- 夫婦間の問題(7章)
- 霊的自由の乱用(8~10章)
- 男女の役割の混同(11章)
- 聖餐式の乱用(11章)
- 霊の賜物の誤用(12、14章)
- 基本的教理の軽視(15章)
コリントの教会は多くの問題をかかえていました。その上、使徒パウロのことをよく思っていない人たちもいました。ですから、事態のひどさにもかかわらず、パウロの指導が必要だという認識はありませんでした。この手紙を読んで分かることは、手紙の受取人たちは、自分のことは棚に上げて、他人の欠点に着目してしまう人たちだということです。
霊的な洞察力のない人々。
解決策は何でしょう。キリストに従って生きるとは、聖書の知識を深め、超自然的な霊の力を追求することだけではありません。コリントのクリスチャンは、このことを理解していませんでした。パウロは、彼らが愛の本当の意味を再発見することを願いました。なぜなら、愛の本当の意味を知らなければ、教義を正しく理解し、力強くメッセージを語って伝道し、犠牲的に奉仕をしても、かえって人に疎まれるからです。パウロは、愛なくして善を行うなら、実際にはどういうことになるか、13章1~3節で比喩を使って説明しました。
コリントのクリスチャンに欠けていた洞察力は、すべてのクリスチャンに必要なものです。私たちも、信仰に関する情報や知識の山を築くばかりで、「聖書の心」で生きることを怠っていないでしょうか。私たちの心には聖霊が宿っておられます。しかし、その聖霊が私たちに心を配ってくださるほど、私たちは人のことに心を配っているでしょうか。私たちは、他人の間違いは指摘できても、愛のない自分もまた間違っているという事実に気づかないことがあります。
このような見解は、クリスチャンであることを咎めようとするものではありません。咎めるべきものは自己中心的な生き方です。コリント人への手紙第一13章は、クリスチャンを卑下させるために書かれたのではありません。それは、宗教的な振るまいを身につけようとするばかり、道に迷ってしまった人を導くために書かれました。同時に、人間関係の問題を起こしたり、普段の態度が悪かったりして、世間の不評を買うことがないよう自警しなさいと促しています。クリスチャンの自分勝手な言い争いを見て、世間の人が「キリストも大したものではない。」と思うようなことがあってはいけないからです。
人間は、「この人は私のことを本当に心配してくれている」 と感じなければ、その人のことばに耳を貸さないものです。私たちがそのように相手を思いやって初めて、世間の人は、キリストを信じる私たちの信仰が、意味あるものだと思うでしょう。キリストの愛によって生かされていないなら、
- 伝道は、人を裁くものになる。
- 正しい教理は、律法主義になる。
- 献身は、独善になる。
- 礼拝は、心の通わない儀式になる。
- 聖書の学びは、高慢な知性偏重になる。
- 奉仕は、疲れのともなう義務となる。
愛がなければ
雄弁な語りかけ→うるさい騒音のよう
霊的な洞察力→何の値打ちもない
慈善行為→何の役にも立たない
霊の一新を必要とする人々。
もし、コリント人への手紙第一13章が私たちの霊的な貧しさを指摘しているなら、私たちは周囲の人々にもっと心配りをするべきです。パウロの語ることばが、私たちの自己中心性を示しているなら、私たちは神によって変わるべきです。このみことばが、私たちの心を照らすなら、私たちはその光の中で自分の生き方を吟味し、もっと主に近い人生を歩むべきです。
しかし、この冊子を読むときに心に留めていただきたいことは、神は、アップグレードしなさいと私たちを召しておられるだけではなく、「あなたを心の底から変えてあげよう。」と手を差しのべておられるということです。神は、単なる道徳水準の向上を意図しておられるのではありません。私たちを人間の生まれ持った性質から解放し、私たちが自分では変えることのできない部分に御業を成してくださるのです。
今、私たちに問われていることは、神と神の真理に自分を完全に委ねるか、ということです。もし、私たちが応答するなら、神はコリント人への手紙第一13章に記されているような本当の愛を私たちの中に生み出させてくださいます。
厄介払いの良き日
年の初めに一風変わったイベントをする人たちがいます。「厄介払いの良き日」と呼ばれ、2006年に始まりました。それは、ある南米の伝統に由来します。各人が、旧年中の悪い出来事や嫌だったこと、恥かしい思い出などを紙に書き、その紙を業務用シュレッダーにかけます。または大槌で打ち叩く人もいます。