ウエストバージニア州の小さな村で、1907年12月6日、炭鉱爆発が起こりました。360人の鉱夫が亡くなり、夫を失った250人の女性と、父を奪われた千人の子どもが残されました。歴史家たちは、彼らの追悼式が、米国の父の日のきっかけだと述べています。悲劇の記憶は記念となり、やがて、祝い事になりました。
史上最悪の悲劇は、人間が己の創造主を十字架につけたことです。しかし、その記憶も記念となり、祝福を創出しました。十字架の前夜、イエスは、過ぎ越しの祭りの食卓で、ご自身を記念するように言われました。ルカの福音書には、次のように記録されています。イエスは「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい』」(ルカ22:19)。
聖餐式では、神の大きな不動の愛に敬意をささげます。私たちを救うために払われた犠牲を覚え、そこから生み出された永遠のいのちを祝います。「我をも顧み、救いの恵みにあずからしめたまう、御神の愛こそまことの愛なれ」(讃美歌第二編230番)と歌われるように。
漫然と聖餐式に参加しているときはありませんか。どうすれば、十字架に焦点を当てつづけられますか。
父よ、聖餐式のとき、自分の罪の大きさを思い出し、あなたの畏怖に値する偉大な愛に思いを巡らし心から祝うことができますように。