ドリューはイエスに仕えたために、2年間の刑に服していました。彼は宣教師が獄中でも喜びに満たされたという話を読みましたが、それは自分の体験ではないと思いました。神はご自分のために苦しむ人を選び損ねたと妻に語ると、彼女は「いいえ。神に失敗はありません」と答えました。

ドリューは預言者エレミヤに共感するでしょう。エレミヤは、ユダの罪のために神の裁きが下ると人々に警告するという形で、神に忠実に仕えました。しかし、神の裁きはすぐには下らず、ユダの指導者たちに迫害され、投獄されました。エレミヤは、神が自分を「惑わした」(エレ20:7)と思います。神のことばは「一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなる」(8節)。「私の生まれた日は、のろわれよ」(14節)。「なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか」(18節)と嘆きました。

ドリューは釈放され、神が彼を選んだことは、エレミヤ同様、正しかったのだろうと、この試練を経て理解しました。なぜなら、2人とも弱かったからです。もし強かったなら、称賛は彼らに向けられていたでしょう。しかし、弱かったので、耐え忍んだ誉れは、神のものになりました。彼の弱さこそが、主が彼を最適とする要素だったのです。