面白い「記念日」があります。日本の2月には、「ピカチュウの日」とか「にわとりの日」とか「気くばりの日」などというものがあります。今日は、米国では「『謙虚になろう』の日」です。確かに謙虚は美徳ですから、祝う価値があります。しかし、常にそうだったわけではありません。
名誉が重んじられた古代社会では、謙遜は弱さの現れだと考えられていました。人は自分の功績を吹聴し、自分の立場を上げ、下げるべきではなかったので、へりくだるとは劣等であることを意味しました。しかし、イエスの十字架刑によってその意味が全く変わった、と歴史家たちは語ります。「神の御姿であられる」イエスが、ご自身の神としての立場を捨て、「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり」、私たちのために死なれました(ピリ2:6-8)。この称賛に値する行動が謙虚・謙遜の定義を変えました。1世紀の終わりには、世俗的な作家でさえ、謙虚は美徳だと語るようになったのです。
今日、誰かの謙虚な態度が称賛されるたびに、福音がさりげなく証しされています。イエスが来られなかったなら、謙虚は「良い」ものではなく、「『謙虚になろう』の日」は考えられませんでした。キリストは私たちのために神の立場を捨てて、歴史を通して神の謙遜な品性を表してくださいました。
今でも謙遜が弱さだったなら、世界はどうなっているでしょう。今日、どんな人間関係においてイエスの謙遜を倣いますか。