ケーススタディ(創世記37~50章)
ヨセフは、父親が年老いてから生まれた息子でした。兄が10人と弟がひとり、姉が数人いました。若い頃の人生は困難続きでした。父親が大っぴらにえこひいきをするために、兄たちから嫌われていたのです。兄たちは、ヨセフが17歳になったとき、彼を殺そうと相談しました。しかし、思いとどまって、干上がった水溜めの穴に放り込んでおき、商いのためにエジプトに下っていく隊商に売り飛ばしたのです。そして、父親には野獣に殺されたと報告しました。
ヨセフは、無理やりエジプトに連れていかれると、パロの宮廷を守る侍従長に買い取られました。そして、主人の妻を辱めようとしたと無実の罪を着せられ、投獄されただけでなく、そこから助け出すことができた人からも忘れられてしまいました。ヨセフが、憤りや恨みや復讐心に燃えていたとしても、当然だと言えるでしょう。
この物語で驚くことは、このような悲劇に見舞われながらも、ヨセフは30歳の誕生日を迎える頃、エジプトの宰相に任命されたということです。また、それ以上の驚きは、ヨセフの人生が、聖書に描かれた「赦し」の絶好の教材だという点です。彼は最終的に兄たちを赦し、兄ともどもイスラエルの12部族の族長になりました。
ヨセフの物語は、赦しのプロセスの示唆に富んでいます。その中でも最も重要な点は、自分が幸せになるか不幸になるかの鍵を握っているのは、自分に害を与えた相手ではないと気づくなら、私たちは赦すことができるという点です。
ヨセフの赦しのプロセスは、ゆっくりと検証してみる価値があります。創世記42~50章には、ヨセフの兄たちが過去のあやまちと折り合いをつけ、ヨセフもけじめをつけた様子が詳しく綴られています。赦し赦されることは、一夜にして起きるわけではありません。自らの悪事は、兄たちの心に深い罪責感を刻み、ヨセフの心に辛い記憶を残しました。
和解のプロセスは、神によって始められました。飢饉によって、父ヤコブは、息子たちをエジプトに送って食料を調達しなくてはならなくなったからです。彼らは何も知らないまま、エジプトの宰相の前に引き出されました。目の前にいるのが、自分たちの弟であるとは、夢にも思わなかったのです。ヨセフは兄たちに気づきましたが、自分の素性を隠していました。そればかりか、彼らをスパイだと非難して監禁し、ある企てをして彼らの心を苦しめました。
あるとき、ヨセフは兄たちが「われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。」と言い合って昔の罪を悔いているのを聞いたので、その場を離れて涙しました(創世記42:21-24)。
過去にけじめをつけることは、簡単ではありません。ヨセフ自身も、自分の心の痛みに百パーセント向き合うことができませんでした。それで、恐れる兄たちに自らの素性を明かしながらも、彼らのおかげで被った人生の痛手を過小に評価するかのように「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:5)と語りかけました。
しかし、中途半端ななぐさめは、過去の傷を癒してくれません。ですから、父親が死ぬと兄たちはヨセフが復讐するのではないかと恐れました。そして再度、赦しを嘆願しました。ヨセフもやっと過去に完全にけじめをつけるときが来たと悟りました。そして、彼らの悪を悪と言い、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」(創世記50:20)と語りました。聖書は、ヨセフが兄たちを慰め、優しくしたと伝えています。
赦しのプロセスは、とうとう完結しました。兄弟の関係が回復したのはすばらしいことでした。ヨセフは兄たちの罪を完全に認識した上で、完全に赦すことができました。彼は自分の人生の必要や幸せの鍵が兄たちの手の中にあるのではないと分かっていたので、彼らを赦すことができました。自分の人生は、神の御手の中にあると分かっていたからです。
赦しに関する誤解
1. 深刻さを過少評価する。
起きてしまったことは変えられないという無力な立場に置かれたとき、私たちは自らを欺いて、何もなかったふりをしたり、大したことではないとか、思うほどひどくはないと言ったりしがちです。赦すとか、赦さないとかいうような大事ではないとうそぶくのです。
父親から習慣的な虐待を受けて育った女性のカウンセリングをしました。ところが、子どもの頃のことを話してくださいというと、彼女は「ごく普通の子ども時代でした。良い思い出です。家族で旅行に行ったりしました。ごく普通でした。」と言ったのです。その記憶のために、夜は40年間も悪夢にうなされ、男性を恐れるあまり、異性とまともな人間関係がまったく築けないという虐待の体験を彼女が語り出したのは、第一回目の面接から数ヶ月もたってからでした。
彼女は、成長過程での深刻な体験を過少に評価しようとしていましたが、その行為は、おぞましい過去と向き合う心の育成を妨げていました。けれども、それがどれほど自分をダメにしているかという真実を直視しはじめたとき、固まっていた何かが溶けていくようでした。彼女はやっと、人としての健やかさや、女性としての美しさに向かって歩み出すスタートラインに立ったのです。
深刻さを過少に評価する発言は色々あります。例えば、「叔父さんは、ああいう人なのよ。別に悪気はないの。赦すとかどうとかいう問題ではないわ。ただ、ありのままを受け入れてあげればいいのよ。」と言ったり、「そんなに深刻に受け取らなくてもいいでしょ。本当にあなたは生真面目なんだから。」とか「人にそんなに期待してはダメよ。」などと言ったりすることです。
このように深刻さを過少に評価してしまうと、「赦し」は非常に深刻な状況にだけ必要な救命道具で、日常的なものではないという考え方になってしまいます。
一方で、極端な反対意見もあります。つまり、本当に些細なことにも白黒をつけなくては我慢できないという人です。このような考え方もまた、「赦し」に対する健全な理解の障害になります。
迷惑をかけられたり傷つけられたりしたときに、はっきり白黒をつけるべきか、黙っておくべきか、その決断は簡単ではありません。上記のような非建設的な両極端を避けて、正しい判断ができるように努力しなければなりません。自分を守ることばかり考えているなら、どちらかの極端に走りやすいと言えるでしょう。
2. 赦すことと忘れること。
多くの人は、エレミヤ書31章34節「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」を引用して、赦すことは忘れることだ、と言います。この人たちは、神の赦しとは、神が私たちの罪の過去をご自分の記憶から消してしまわれたことを意味するのだと言います。そして、私たちもお互いをそのように赦さなければならない。神が私たちの罪を忘れてくださったのだから、本当に赦すというなら、私たちも傷つけられた過去を忘れてしまわなければならない、と言います。
しかし、神は罪を赦したからといって、それを忘れてしまわれたわけではありません。神は、太古の昔から永遠の未来に渡って、すべてのことをご存知で、すべてのことを覚えておられるお方です。聖書は神の霊感によって書かれた書物ですから、神は聖書の筆者であられますが、「赦した」と言われているダビデ王の罪を記憶に留めておられ、それを記述しておられます。同じことが、アダム、アブラハム、モーセ、パウロ、ペテロなどに関して当てはまります。
神があわれみ深いというのは、そむきの罪を赦して忘れてしまわれるからではなく、そむきの罪を赦した後はその人を敵と見なされないからです。詩篇の作者の「どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けてください。わたしたちは弱り果てました。」(詩79:8新共同訳)という願いは、まさにこのことです。
神は、ダビデが姦夫であったことを覚えておられました。ラハブが売春婦であったこと、モーセが殺人者であったこと、アブラハムがひどい嘘をついたこと、パウロがクリスチャンを迫害し、ペテロが敬虔どころかサタンの回し者のようなことを言ったり、主イエスを否んだりしたことを覚えておられます。神はこの人たちの罪を記録として残されました。しかし、彼らを恥かしめるためにではありません。ご自身が愛し、赦し、更生させて、お用いになった人々の真の姿を私たちに伝えるために、彼らのありのままを記述されたのです。
「赦すことは忘れること」というアプローチは、間違った考えを頼りに、過去の痛みから逃避する試みに過ぎません。神は「忘れなさい」とは教えておられません。過去のことが原因でお互いを敵視することのないようにと言っておられるのです。神の姿に倣い、聖霊に助けていただいて、傷つけられたときのことが忘れられなくても、相手の人を愛情深く赦すことができます。
3. 自分のために赦す。
このアプローチは、「自分を第一に愛しなさい」という考え方から派生しています。カウンセラーのロビン・カサージャンは、クリスチャンではありませんが、「安らかな心のための勇敢な選択」という著書を記して、昔の恨みや怒りから解放される方法として「赦し」を提案しています。
さて、彼女は「赦し」をどう定義しているのでしょう。インタビューに応えて、カサージャンはこう述べました。「一般的に赦しについて考える場合、自分以外の誰かに効能があると思われています…見逃されている点は、赦すことは、本当は自分中心の行為だということです。それは自分にとってよいことです。というのは、自分の感情を他人の行為の犠牲になることから解放して、益々心安らかに生活する自由を手に入れるからです。」(ニューエイジ・ジャーナル誌1993年9月/10月号より)
多くの人は、当然のことながら、自分の心の平安を求めていますから、このような無条件の赦しというアプローチに惹かれます。自分のために赦せば、激しい恨みや怒りから解放されるかもしれません。復讐心に燃えるということもないでしょう。キリストのように柔和な態度で自分を傷つけた人に接することができるかもしれません。けれども、この方法は聖書が教える本当の赦しの祝福を巧妙に損ない、弱体化させ台無しにしてしまいます。その危険とは、赦しを愛の表れから利己的な自己防衛の策にしてしまうことです。
神は無条件に私たちを赦してくださったのでしょうか。いいえ。神が私たちを赦して、救ってくださったのは、私たちの悔い改めという行為があったからです。私たちは、自分で自分を救うという考えを捨てました。そして、ご自分のいのちを犠牲にしてくださったキリストの生きて働くいのちだけが、「私」を救うことができると信じました。
神の子どもとなったクリスチャンの間では、赦すことと赦されることに関して、これと同様のことが言えます。ヨハネは、「私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)と語り、私たちが罪を犯したなら、神は私たちを無条件に解放なさらないと明言しています。
キリストのように赦すためには、相手を愛さなければなりません。しかし、キリストのように愛していると示すために、相手を赦す必要はありません。問題の解決は、無条件の赦しではなく、自分自身に「愛に必要なものは何だろう」と問いかけることです。神を愛し、自分を傷つけた人を愛するために、大切なことは何だろうかと問いかけることです。
赦し合う人生の必須条件
どうすれば、「赦し赦されること」が人生の営みの一部になるのでしょう。聖書的な寛容を追求する歩みの準備段階として、以下の提案をしたいと思います。
現在進行形で生涯つづく行為だと認識する。
「赦し」は一度きりの行為ではありません。私たちを裏切る人の「負債」を何度も免除してあげることです。ルカの福音書の17章を思い出してください。イエスは、もし兄弟が1日に7回罪を犯して7回とも悔い改めれば、その人を赦さなければならないと教えられました。このメッセージは1日の限度が7回だと教えている、と捉える人があるかもしれませんが、それは違います。むしろイエスは、赦しには限度がないと教えておられるのです。ペテロが「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と尋ねたとき、イエスは「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います…」(マタイ18:21-22)と言われました。「赦し」は、生涯つづくのです。
自分が加害者の場合、赦されることを強要してはならない。
赦しを請うときに注意しなくてはならないことがあります。大切な問題は、赦しを請うときの言葉使いではなく、その動機です。残念なことですが、多くの場合、謝罪の言葉を口にするのは一種の逃げです。自分が悪いことをしたという事実としっかり向き合うのが辛いので「ごめんなさい」と言うのです。薄いベールで覆われたその本心が暴露されるのは、大抵の場合、すぐには赦されないと分かったときです。もし、謝罪をしている方が居直って、相手がすぐに赦さないことを非難したならば、その謝罪が真心から出たものでないことは明白です。本当に悔い改めているならば、自分には赦される権利があると主張したりしないはずです。本当に悔いた心は、砕かれたたましい(詩篇51:17)です。
将来に備えて、聖書的で正しく赦せる心を育てよう。
1. 短期的な満足に心を奪われない。
言い返したり仕返しをしたりして勝ったとしても、一時的な満足しか得られません。イエスは、山上の垂訓で「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)と語られ、時が来れば永続的に満ち足りるものを渇望しなさいと教えられました。
イエスは、神の義に飢え渇くことは正しいと教えられました。神は信仰によって心安らかに幸せに暮すことを求めている人たちに、本当の満足を与えてくださいます。
飢え渇くべき「神の義」のひとつは、自分を傷つけた人をキリストのように愛することかもしれません(マタイ5:39-42、ルカ6:32-36)。このような態度は、世間の掟に従って生きている人の目には、思慮に欠け、自虐的にさえ見えるかもしれません。しかし、これがクリスチャンとそうでない人の違いです。クリスチャンは、天国の掟に従って生きる感謝溢れる神の臣民なのです。
私たちは、罪に呪われ、敵意に満ちた世の中に生きていますから、「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)と祈らずにはいられません。このような態度は、決して現実逃避ではありません。神が私を傷つけた人の人生に働かれ、その人が心から悔い改めてイエスの再臨に備えてくれますように、と祈るのは、愛情深く理にかなったことです。
2. 悲しみをとおして砕かれる。
神のあわれみと赦しをどれほどいただいて、自分は立ち行くようになったのだろうと気づけば気づくほど、自らの非を認めて謝罪する人を赦してあげようと思います。
使徒パウロは「神のみこころに添った悲しみ」(第二コリント7:10)が、悔い改めを生じさせると述べています。私たちには、神のみこころに添って自分の罪を心から悲しみ、神の赦しを確信して、神のあわれみ深さを味わい知った体験があります。自分の体験の深さに応じて、罪を犯した人に悔い改めを奨励し、神のあわれみによって解放されるようにと勧めることができます。
3. 復讐という考えを拒絶する。
極悪非道な振る舞いをした人、例えば、幼児虐待をした親、わいせつ行為をした教師、不倫をした配偶者、子どもを殺した飲酒運転のひき逃げ犯などの未来を決定する権利が、あなたに与えられたとします。ひとつは、永遠に痛めつけられ苦しめられるという未来、もうひとつは、あなたにも良くしてくださった神の御前で悔い改め、改心するという未来です。どちらの未来をあなたは選びますか。その選択は、あなたの心の方向性を物語っています。
復讐したいというのが自然です。優しくされる資格がない人に優しくするのは不自然です。しかし、神の恩寵から遠ざかろうとする人は、恨み、罪悪感、激怒、恐れ、疎外感、孤独といった感情を行ったり来たりしながら生きていきます。赦すことを拒みつづける心には毒があります。その毒で苦しめられるのは、罪を犯した人だけではありません。心に毒を持っている人もまた、痛みつづけるのです。
復讐心を神の御手に預けるということは、決して正義をないがしろにすることではありません。神に正当な言い分を申し上げて審判を委ねることは、「別に気にしていないので、大丈夫ですよ。」と相手に言うことではありません。そうではなくて「神が御心のときに御心のことをあなたになさるでしょう。私はそれを信じていますから、自分で復讐しようとは思いません。」ということです。
悪に悪で報いることを放棄するなら、相手は仕返しをされると覚悟していたので、不意を突かれるでしょう。私たちは、予想に反した寛容な態度で相手をびっくりさせて、改心して赦しを請うべきだと方向転換するきっかけを作るべきです。私たちは神に赦されているのですから、そうすべきです。
罰するのは神の役目です。神は「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)とおっしゃるお方ですから、私たちが挑むべき難問は、神があわれみ深くお取り扱いくださるようにと相手のために祈れるかどうかです。
4. 神が私たちを愛してくださったように、他人を愛そうとする熱意を持つ。
自分が受けた神の赦しを相手も受けるようにと願って、その人を愛そうと努めているなら、その行為は神を親しく知っているという確かな証拠です。神の寛容さと親切の恩恵を限りなく受けているという認識が、他人を赦し愛する最大の動機になります。
イエスの教えは単純明快です。多く赦された人は多く愛します(ルカ7:40-48)。一方、多額の負債を免除されたあとで「小銭」の弁済を迫る人は、厳しい罰を受けます(マタイ18:23-35)。
自然に愛することは不可能です。しかし、クリスチャンの使命は、簡単に出来ることだけをすることではありません。むしろ、犠牲を払って愛し赦してくださった神の恵みを信じて、自らも犠牲を払って愛し赦すことです。私たちの行動は、人々を和解させるという神の働きを映すべきです。
神の愛は、私たちが自分の罪によって神から永遠に遠い存在とならないように、救いの道を備えてくださいました。私たちの愛もまた、神の愛に倣って、自分を傷つけた人を赦することができるようにすべきです。聖書は語ります。
「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(第二コリント5:18-19)
はじめに
最近、心穏やかでない手紙を受け取りました。手紙の主はこう語っています。「家族に復讐するために悪巧みをするよう、サタンが私を扇動して止みません。私は両親からひどい心的虐待を受けて育ちました。それは、結婚して家を出るまで続きました。私は、両親の憎しみや嫉妬といった否定的な感情のはけ口にされていたので、何をしても非難されました。暖かい言葉をかけてもらったことは一度もありません。両親に復讐している悪夢を見て飛び起きることが、今でもあります。もし、私が良いクリスチャンなら、両親のことはすっかり赦して、過去のひどい傷の痛みを思い出さないのではないでしょうか。どうすれば、彼らを赦しきって、この煮えたぎる怒りから完全に自由になれるのでしょう。どうか、教えてください。」
この手紙を書いた方のように、赦しきれなくて苦しむ人は、少なくはありません。私の知人は、不倫をした妻を赦せなくて苦しんでいます。彼は夫婦の関係を修復したいと願っていますが、再び裏切られるかもしれないという不信や恐れ、そして怒りの感情がそれを阻んでいます。
ゴシップに傷つけられた人もいます。信頼して悩みを打ち明けた人が他言して、あなたは今や、近所や職場の井戸端会議の中心です。悩みがあった上に信頼を裏切られ、怒りで爆発しそうです。心は切り裂かれたように痛みます。そして、復讐の思いが沸いてくるのです。どうすれば、信頼を裏切った人に思い知らせてやることができるのか、そんなことを考えてしまいます。どうしても、その人を赦す気にはなれません。
「赦す」とは、どういうことなのか。
「赦す」と聞くと、どんな言葉を連想しますか。「忘れる」、「心がもう痛まない」、「怒っていない」、「過去のこと」、「償いを求めない」、「不公平」、「正義に反する」などでしょうか。最初に申し上げたいことは、「赦し」はクリスチャン生活で最も誤解されている教えだということです。多くの人は、赦すとは、自分を傷つけた人を無条件にまっさらの状態に戻してあげることだと思っています。また、その人を愛するためには、赦さねばならないと思っています。一方で、自分のために相手を赦すという人もいます。こういう人たちは、赦しが自分を憤激や遺恨から解放する手段だと唱えています。多くの場合、赦しとは「あなたがしたことが何であれ、無条件に水に流してあげます。」と恩赦を与えることだと思われています。
ところが、そのような赦しは、多くの人が考えているような肯定的な結果を生んでいません。例えば、酒に溺れて暴力をふるったり浮気をしたりという夫を、妻は黙って赦し続けなければならないのでしょうか。この種の愛や赦しが、この夫の真の必要でしょうか。神聖な結婚の誓いを破ったという恥さらしな事実と向き合うことなく、ただ赦されるということが、彼の益になるのでしょうか。
聖書は、赦すべきか否かという問いにどう答えているのでしょう。その答えは、キリストを模範とする愛とはどういうものなのかという疑問と無縁ではありません。また、時と場合によっても違います。愛があるなら「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と言わなければならない時があります。何度も赦さなければならない時もあります(マタイ18:21-22)。しかし、愛があるなら、相手のためにとりあえずは赦さないと決断すべき時もあります。
ティム・ジャクソン
米国ミシガン州在住。
米国RBC牧会カウンセリング部、シニア・カウンセラー。
認定心理療法士。
(このプランは同タイトルの探求の書を再構成したものです)
赦しの模範型 2・赦しの代価
構成要素③:悔い改め
イエスは、無条件に赦しなさい、と教えられたのではありません。ルカ17章3~4節では「・・・もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と語られました。
「悔い改める」とは、「考えを変える」ということです。「悔い改め」そのものは、罪を克服することを意味しません。むしろ、罪につながった生き方が本当に変わるために、今までの心得違いを改めることを意味します。そのような「悔い改め」は、キリストが提示されている「赦し」の必須項目です。罪を犯した人はまず、自分の愛の欠如を認める場に引き出されなければならないと、イエスは語っておられます。
「覆水盆に返らず」ということわざは事実かもしれませんが、容器をひっくり返して水をこぼした人は、少なくとも、その水を拭いて謝罪することができるはずです。自分の間違いを認めて、心から後悔していると行動で証明することはできるはずです。もし、私たちが誰かに対して罪を犯したなら、自分の否を認めてできるかぎりの賠償をすべきです。申し訳ないことをしたとこちらが認めるなら、相手の心が少しは慰められるでしょう。
「悔い改め」が真摯であるのか否か疑わしいこともありますが、その時は、証拠を見つけるようにしましょう。自分の非を本当に悔いているなら、その人は自分が間違っていたと言葉にすることをはばかりません。言い訳をせずに謙って赦しを請います。そして、自分の罪が招いた結果を受け入れます。ダビデ王は、神のみこころを追い求める人として知られていますが、彼が罪を犯したときの態度はこのようなものでした。ダビデは、神に赦されましたが、その罪が招いた結果とは、息子の死、家庭の崩壊、そして内乱という恐ろしい悲劇でした(第二サムエル12:13-23)。しかし、ダビデはそれを受け入れたのです。
「悔い改め」が不可能なこともあります。例えば、加害者がすでに死亡している場合です。そのような場合、祈りとあわれみの心でその人を神の御手に委ねることしか、私たちにできることはありません。
構成要素④:赦し
前述の「赦しの定義」を思い出してください。それは、愛を込めて自発的に借金を棒引きにしてあげることでした。正直に向き合い、愛し合い、ともに成長するという人間関係を育もうとするなら、それに伴って生じる障害は、赦し合うことで乗り越えていけます。互いを避けたり、よそよそしくしたり、冷たくしなければならない理由は皆無のはずです。
「私を傷つけた」という事実に対して、正しい処置がなされたなら、寛容な人は「あなたが私を傷つけたことを認めて恥じていることが、私にはよく分かりす。ですから、もうこのことは、水に流しましょう。」と言うことができます。一方で、真摯な悔い改めの証拠が言動に表れないなら、愛を込めて赦さない選択が必要となるでしょう。
愛しているからこそ赦さないことを表現する形は色々あるでしょう。教会で聖餐を控えさせることかもしれません。夫婦間に溝があるなら、うまくいっているかのように振舞うことを止めたほうがよいのかもしれません。物静かな態度でもはっきり絶交するなどして「あなたの行為は私の信頼を裏切ったものです」と友人に悟らせることかもしれません。職場では、失敗を謝罪しなければ、昇進や昇給の差し止めにつながることもあります。
赦さないといって非難されることがよくあります。もし、加害者の悔い改めが証明されているのに、被害者が赦さないならば、それは間違っています。しかし、悔い改めがはっきりしないなら、問題の焦点は未だ自分の非を認めないその人です。同時に、キリストの教えに従って率直かつ穏便に「対決」していないのに、相手が悔い改めないから赦さないと被害者がいうなら、それも正しくありません。ふたりの人間関係を壊してしまうほどの大きな問題があると伝えるのは難しいことです。それを、キリストの愛を見習ってあえてしたのに、相手が応答しないなら、赦さないのが正しいのです。
仮に罪は赦されても、犯した悪い行為の結末から逃れることはできません。盗みや万引き、酒乱や薬物の乱用、幼児虐待をしたけれども悔い改めたという人たちに対する愛とは、この人たちが再び罪を犯さないように監視したり、行動を規制したりすることを意味します。神は私たちを赦してくださいましたが、蒔いた種を刈り取るという自然律がなくなるわけではありません。パウロはガラテヤ人の手紙に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7-8)と記しています。
私たちが犯した過ちの結果を消すために、神は私たちを赦されたのではありません。私たちが神に愛され受け入れられていることを喜んで生きるために、神は赦してくださったのです。私たちの罪によって神と私たちの間には溝ができたにもかかわらず、神は赦してくださり、親しく交わる関係を再び差し出してくださいました。神は、私たちを永遠に恥や罪責感から解放してくださいますが、罪の結末や傷跡がすべて消えるわけではありません。私たちは、それを負って生きていかなければなりません。
構成要素⑤:回復
過ちのために疎遠になっていた人間関係が悔い改めと赦しによって回復されるなら、筆舌に尽くしがたいほどの喜びと解放感をもたらすでしょう。大抵の人は、家族や友人との間で重苦しい空気を体験したことがあるはずです。多くの場合、赦しがたい大罪のためにそうなったのではありません。むしろ、日々のちょっとした行き違いに起因した心の痛みが原因だったはずです。そのような場合でも、正直に言い表し、赦し合うことで、人間関係が回復され、喜んで再出発することができます。
私は、妻の心を傷つけたある春の日曜日のことを、今でもはっきりと思い出すことができます。私は当時、大学院生で、卒業論文を書いていました。一方で、生活のためのアルバイトも忙しく、論文の提出期限が迫っているのに、数週間も残業が続いていました。それで、その日曜日は教会の礼拝を休み、論文を書こうと思ったのです。
ところが、それは母の日礼拝でした。私たちは、その年、結婚8年目にしてやっと子どもを授かったので、その礼拝は彼女にとってのビッグイベントでした。教会では、母である女性たちが立ち上がって、敬意の印として一輪の花をもらいました。しかし、私はその場にいて妻に敬意を表すことはできませんでした。論文のことで切迫していたからです。
私は帰宅した妻の顔を、生涯忘れることはないでしょう。悲しみと怒りと恥の入り混じったあの涙目を決して忘れません。彼女は、その花をちぎってゴミ箱に捨ててしまいました。私はショックで言葉を失いました。私は彼女を傷つけたのです。悪気はなかったのですが、彼女の心の必要に鈍感だったのです。生涯で最初の母の日は、二度とやって来ません。それを逃してしまいました。「覆水盆に返らず」です。
私は、心から妻にあやまりました。私の選択が間違っていたことは明らかです。弁解の余地はありませんでした。私たちは、話し合い、抱き合い、ともに涙しました。論文のことなど、もうどうでもよいように感じました。妻は私を赦してくれ、私たちは再び仲の良い夫婦になりました。
もし、人間関係の回復を体験するなら、悔い改めてみもとに来た人を神がどれほどお喜びになるか、ある程度理解できるかもしれません。結局のところ、神は赦したいのです。罪を決して見逃されないのと同じように、神は心から赦したいと願っておられるのです。
そのような神の愛を、ネヘミヤは、次のように言い表しました。「彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行なわれた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。」(ネヘミヤ9:17)
福音のメッセージは、和解を導く赦しについてです。神と人との壊れた関係を回復し、和解することです。過去には、神を離れ、神に逆らって生きていた私たちが、神との回復された関係をエンジョイするために神の近くに引き寄せられたのです(ローマ5:8-11、コロサイ2:12-19)。
赦しの代価
赦し赦される過程では、被害者と加害者の双方とも、高い代価を支払わなければなりません。その顕著な例は、神がどれほどの代価を払って私たちを赦してくださったかということです。私たちの罪の罰を、御子が受けてくださいました。「…正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです…」(第一ペテロ3:18)と語られているとおりです。
被害者にとって代価とは、復讐したいという思いを葬り去ることです(ローマ12:17-21)。過去を水に流して、悔い改めた加害者の再生を求めることです。
加害者にとって代価とは、恥を忍んで非を認め、改心することです。自分のしたことを隠さずにありのまま告白して、百パーセントの責任が自分にあると認めることです。自分の過ちに端を発する結末を受け入れて弁済のできることはし、逃げたり隠れたり弁解したりしないことです。そして、平身低頭に相手の寛大な処置を請い願い、それがかなったなら心から感謝することです。
被害者と加害者の双方にとって、赦しの代価は決して安くありません。しかし、ふたりの人間関係が回復され、新たに出発できるという解放感や喜びを考慮すれば、それを支払う価値は十分にあるはずです。
赦しの定義・赦しの模範型 1
赦しの定義
聖書を貫く赦しの概念は、「解き放つ」、「送り出す」、「行かせる」などというものです。聖書の中で「赦し」と訳されているギリシャ語は、役職を解かれるとか、結婚関係から解かれる、また義務や負債、刑罰を免除されるというときの言葉と同じです。何らかの借りがあるという状況と「赦し」のコンセプトは関連しています。聖書的に言えば、赦しとは、「愛を込めて自発的に借金を棒引きにしてあげること」です。イエスは、パリサイ人シモンの家で、そのように教えられました(ルカ7:36-47)。
その時の様子は、以下のようでした。イエスが食卓にいると、心砕かれて悔い改めた娼婦がやって来ました。その女性は感情をこらえ切れないかのように、イエスへの深い敬愛を包み隠さず表しました。彼女は、「泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」(38節)のです。シモンは腹を立てて、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と思いました(39節)。
その後の展開は、次のとおりです。「するとイエスは、彼に向かって、『シモン。あなたに言いたいことがあります。』と言われた。シモンは、『先生。お話しください。』と言った。『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。』シモンが、『よけいに赦してもらったほうだと思います。』と答えると、イエスは、『あなたの判断は当たっています。』と言われた。」(40-43節)
罪は負債を負わせます。この負債は、勘弁してもらわなければなりません。勘弁してもらった負債が、どれほど大きいものかを認識すればするほど、赦してくれた人に対する敬愛が深まります。
赦しの模範型 1
イエスは、ルカの福音書17章3~4節で、「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と語られ、自分に罪を犯した人を赦すときの模範を型にして弟子たちに教えられました。
この型には5つの構成要素があります。それをひとつずつ見ていくことにしましょう。
構成要素①:罪
イエスは、どのような罪に対応すべきだと教えておられるでしょうか。この個所では特定されてはいませんが、罪は愛の欠如だと定義されるべきでしょう。イエスは、私たちの神と人に対する義務は、愛することだと教えられました(マタイ22:37-40)。パウロも「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。…」(ローマ8:13)と語り、同じことを教えています。
しかし、ルカ17章3~4節が語る罪をすべての愛の欠如であるとするならば、疑問が生じてきます。イエスは、私たちが愛に欠ける態度や行いをしたときは必ず、互いに戒め合いなさいと言われているのでしょうか。または、愛を裏切った人には何らかの処分をすべきであり、さもなければ、人間関係を損ない、加害者から悔い改めの機会を奪うことになると言われているのでしょうか。
クリスチャンは忍耐強く愛するべきなので、上記で「罪」と呼ばれているものは深刻なものに限られ、普通のことは見逃すべきだと考えているならば要注意です。自分では大したことではないと思っている「罪」が、実は考えている以上に深刻だという場合があるからです。私たちはどこまでも自己弁護する生き物です。日常的な「罪」が、どれほど大きな影響を自分自身や自分を取り巻く人間関係に及ぼしているかに関して、過小に評価する傾向があります。
一方、被害の否認は、自己欺瞞の典型です。受けた打撃を直視せず、過剰反応しているだけだと自分に言い聞かせるなら、その人間関係に生じた小さな亀裂は徐々に広がって、ふたりは、表面的で疎遠な間柄になっていきます。そして、「まあ、人間は変わるのだから」と言い逃れをして、正直に互いと向き合うという愛を実践して赦し赦されるという貴重な体験に背を向けます。
人間は、互いに親密さを深め信頼し合うようにと造られましたが、罪はそのあり方を蝕みつづけています。ですから、赦しは、常に必要な罪の対処法です。私たちは、赦すだけでなく赦されなくてはなりません。
構成要素②:対決
被害者が、まず行動を起こさなくてはなりません。イエスは、「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。」(ルカ17:3)と語られました。「戒める」とは厳しい言葉です。しかし、イエスの訓戒の基本は、いかなる行動の動機も、神の愛に倣って相手を愛するということです。ですから、この場合、加害者である相手の最善は、戒められることであるはずです。日本語で「戒める」と訳されているギリシャ語の単語には、「尊敬する」とか「重々しく扱う」という意味もあります。このことから、間違いの責任を取らせるという行為は、その人を敬う行為であると考えられていたことが分かります。つまり、その人のことを大いに尊重するなら、その人の正しくない言動を深刻に捉えなさい、ということなのです。
まず「キリストの愛に倣うには何をすべきか」ということを考えましょう。イエスのように、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34、参照:使徒7:60)と祈るのがふさわしいときもあります。このような愛は、「多くの罪をおおう」(第一ペテロ4:8)もので、加害者の理解を超えたものです。特に、子どもや信仰の浅い人、またキリストを知らない人には理解できません。
しかし、一番大切なことは「キリストの愛に倣うには何をすべきか」との問いかけです。なぜ罪を糾弾しないのかと寛容の動機を問いかけてみたら、気まずくなるのはイヤなので対決姿勢を避けたということであってはいけません。加害者にとっての最善を求めたから、という動機でなくてはなりません。
愛の込もった対決姿勢には、優しい雰囲気があります。多くの場合、「私には分かっていますよ」という態度でじっと見つめたり、「やめておきなさい」というメッセージを込めて、その人の肩にそっと手を触れたりという行為で十分です。しかし、時には「そういうことをされると、どういう気持ちになるか考えてみたことがある?」と、やんわり質問したり、「あなたは私にとって大切な人なので、ああいうことを見逃すわけにはいかないよ」とやさしく苦言を呈したりする必要もあるでしょう。
しかし、加害者の性格や加害行為の重大さによっては、「あなたのしたことは、私を傷つけました。今、私たちの信頼関係には、ひびが入っています。あなたは、私の信頼を裏切ったと思います。」とはっきり言わなければならない場合もあります。深刻な対決では、裁判に訴えたり、警察沙汰にしたりして、懲役刑につながる場合もあります。しかし、加害者にとっての最悪事態は、罪をはっきり指摘されて悔い改める機会をもらうことなく、神の審判を迎えることです。
聖書には、いくつもの「対決姿勢」の例話があります。例えば、ナタンはダビデ王の姦淫と殺人の罪を糾弾しましたが、その方法は機知に富んだものでした(第二サムエル12:1-14)。一方、イエスの一行を十分にもてなそうとやっきになって、イエスと一緒にゆっくりする時間を持とうとしなかったマルタを、イエスは優しいことばで戒められました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。…」(ルカ10:41-42)という主のみことばから、イエスの優しい思いやりを察しない人はいません。
愛を込めて糾弾することの必要性は明らかです。問題を未解決のままにしておくなら、その人との関係は何となくよそよそしく冷えたものになっていきます。信頼関係が壊れると、お互いを恐れたり避けたりするようになります。また、加害行為に目をつむって、その人を無罪放免にするなら、それは、その人が同じ間違いを繰り返すのに手を貸していることです。例えば、盗みや万引き、うそや噂話、約束破り、性的不道徳などがこれにあたります。このような癖のある人は、誰かが厳しい愛ではっきり言わなければ、いつまでも変わりません。
態度が厳しいか優しいかは別にして、対決には細心の注意が必要です。「愛を込めて」というなら、決して安易な気持ちではいけません。また、性急であってもいけません。「身の程を思い知らせてやる」と喜び勇んで相手を叱りつける人もいますが、イエスはそのような態度を支持されません。思いやり深い「対決」とは、慎重に時を見計らって、その人の必要にぴったり合わせて実行されるものです。賢明な人なら、相手を卑しめず、むしろ立て上げるために、愛によって正しく語ることができるはずです(エペソ4:29)。
信頼している人に叱られるというのが、理想の形です。「憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:6)と聖書が語るように、相手が敵ではなく友人ならば、その人が戒めの言葉を受け入れる可能性は高いと言えるでしょう。
愛を込めて糾弾することの目的は、加害者に自分の罪を気づかせることです。自分が何をしたのかを明確に理解してその責任と向き合い、どんな心得違いがあったので罪を犯したのか、自分の内側をしっかり見つめて、二度と同じ間違いをしないように生き方を変えるチャンスを与えてあげることです。
自分を傷つけた人に対して、愛ある姿勢で面と向き合うのは容易ではありません。勇気と知恵のいることです。主張すべき時と沈黙すべき時を推し量る知恵が必要です。対決の結果は予断を許しませんから、行動には勇気が必要です。本当の愛のあるべき姿を示そうと真摯に努力しても、相手は激怒したり、拒絶したり、無視したりという場合も少なくないでしょう。ですから、最悪の結果も甘んじて受け入れる心の準備が必要です。もちろん、最高の結果も期待しますが…。私たちの目指すものは、単に人間関係を修復するということではありません。キリストに倣って愛を実行するということなのです。
対決の結果が必ずしも和解ではないので、私たちは躊躇します。しかし、キリストに従いたいのならば、実行しかありません。イエスは「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に『根こそぎ海の中にうわれ。』といえば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:6)と言われました。つまり、信仰は小さくても、それに基づいて行動すれば、神が私たちを従順の道に導いてくださると確約されているのです。このからし種のたとえ話は、弟子たちが神の戒めと赦しについての話に驚愕して「私たちの信仰を増してください。」(ルカ17:5)と言ったときに語られました。そしてイエスは、神の僕(しもべ)の役割とは、命じられたことをすることだと続けられました(ルカ17:7-10)。
このイエスのみことばをどう理解するかは、私たちが信仰というものをどう思っているかにかかっています。キリストのように天の父である神を信じることは、私たちが自分に都合の良い考え方にしがみつくということではありません。神が聖書で語られていることを信じるということです。もし、しっかりと根をはった木が根こそぎ移動することを神が望まれるなら、私たちの側に必要なものはごく微量の信仰です。神の御力が、その奇跡を成すのです。
しかし、ルカ17章1~10節は、神の御力が私たちの背後で働いて加害者との問題を解消してくださると語っているのではありません。むしろ、加害者と対決し、そして赦すという、非常に困難なプロセスに立ち向かう私たちを支えて、私たちの成すべき仕事を完結させてくださると語っているのです。しかし、性急になってはいけません。加害者と対決し、そして赦すという仕事に必要な力を、神がお与えくださるという指摘は大変重要ですが、赦しの必須条件が悔い改めだとイエスが語っておられることは、それと同じぐらい重要です。
機会を捉える
シン・イーは大学入学前の長期休暇に高校生伝道の団体でボランティアをしようと決めました。しかし、時期が悪いように見えました。コロナ禍で人との接触が難しかったからです。ところが、シン・イーはよい方法をすぐに見つけました。「いつもなら、未信者の学生には学外で声を掛けて、ファストフード店やショッピングモールで会うのですが、今回はクリスチャンの仲間とズームで互いのために祈り、未信仰の学生たちには電話をかけました」
弱さの中の強さ
息子が3歳になる頃、私は手術をすることになり、退院後も回復まで1カ月以上かかると言われました。術後、元気いっぱいの幼児の世話をどうすればよいのでしょう。その上、食事の支度です。汚れた皿が積まれたシンクや、ベッドに横たわる自分を想像し、私は自分の不調が家庭に与える影響を恐れました。
深い癒やし
ブラジルのリオデジャネイロを見下ろす有名なキリスト像は、2020年イースター、医師の姿になりました。この感動的な演出は、新型コロナウィルス感染症の最前線で戦っている多くの医療従事者に敬意を示すためでしたが、「イエスは偉大なる医者」という西洋の一般常識を視覚的に表すものにもなりました(マコ2:17)。