特別な集会に備えて会堂の飾り付けをしていると、責任者が手際の悪い私に嫌味を言いました。彼女が去ると別の人が来て「気にしてはだめ。彼女にはあわれみが必要なのよ」と言い、私は笑いました。それ以来、誰かともめるとそう言いました。後年、その女性が亡くなると、彼女が、見えない所で神に仕え、困っている人に惜しみない援助をしていたと、牧師が語りました。私は、彼女や他の人のことを裁いたり、「あわれみが必要な人」とレッテルを貼ったりしたことを悔い、神に赦(ゆる)しを乞いました。実際、私も他の人と同様、あわれみが必要なのです。
使徒パウロは、私たちは皆、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(エペ2:3)だと述べています。しかし、神は救ってくださいました。それに値することは何もしていないのに。どんな善行も不十分です。それは、「だれも誇ることのないためです」(9節)
人生の一瞬一瞬を神に差し出すなら、聖霊は、私たちの悪い性格を変えるために働かれます。そうして私たちは、キリストの姿を映し出すようになります。全てのキリスト者には、さらなるあわれみが必要です。しかし、感謝しましょう。「わたしの恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリ12:9)と、神が言われるのですから。
人の未熟さを断罪してしまったことがありますか。自分の性格のどういうところに主の助けが必要ですか。
父なる神よ、神の惜しみない愛をあふれるばかりに頂いているのですから、他人の未熟さに寛容になれるように助けてください。