エミリー・ディキンソンは、「わたしは無名! あなたは?」で始まる詩を書いて、認められようと頑張ることを茶化しています。「有名になるって、いったいなにがおもしろいの?まるで沼地の真ん中の蛙みたい。自分の名前を大声で連呼して、六月のあいだじゅう見わたすかぎりの泥に拝まれて!!」
この気持ちは使徒パウロの証しに通じます。回心前のパウロには、誉れある立場、つまり「肉においても頼れるところ」(ピリ3:4)がありましたが、イエスと出会って一変しました。
自分の成果は、キリストの犠牲の愛から見れば本当に虚しいと悟り、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損……ちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得……るためです」(8-9節)と告白しました。彼の唯一の目標は、「キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態」になることでした(10節)。
認められようとあくせくして、「いったいなにがおもしろいの」でしょう。わびしいことです。イエスを知り、ご自分を犠牲にされた主の愛に飛び込むなら、己を再発見して、自由になり、神の義を得た全き自分になれるのですから(9節)。
いつから経歴や人の評判が自分の価値だと思わなくなりましたか。どのように「キリストの内にある私」と認識することで、うぬぼれと自己嫌悪の両方から解放されるでしょう。