神の働きのためにクリスチャンリーダーに奉仕を依頼する仕事をしていたことがありました。私は案内書を作り、奉仕の内容やどの程度の時間を割かなければならないかなどを説明しました。そこには犠牲が生じるので、多忙な人にお願いすることはしばしばためらわれました。しかし「光栄です」と快諾してくださる方々がいて感動しました。断る理由を述べる代わりに、神の慈しみに対する返礼として奉仕したいと言ってくださいました。

ダビデ王の姿勢も同じでした。彼は、神殿の建設のために私財を投じましたが「このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう」(Ⅰ歴29:14)と述べたのです。ダビデは惜しみなく献げましたが、それは、神が自分やイスラエルの人々を慈しんでくださったことに感謝したからでした。彼の姿勢は彼の謙虚な心を表しています。「寄留者であり、居留している者」(15節)、すなわちよそ者にすぎない自分たちに何と良くしてくださったことかと感謝しているのです。

神の働きに、時間、技術、お金を献げるのは、私たちがまず神から頂いたからです。私たちのものは全て、主が下さったものです(14節)。それに対する返礼として、私たちは感謝の心で神に献げます。