朝の散歩の時、ミシガン湖を絶妙な角度で照らす光が作る風景を写真に収めようと、一緒にいた友人に少し待ってほしいと頼みました。そして、スマホを取り出しましたが、光が当たった画面では景色が確認できません。しかし、以前にもやったことがあったので、素晴らしい写真が撮れると確信していました。私は友人に「見えなくても、こういう写真は大概よく撮れるものよ」と言いました。

信仰によって地上の人生を歩むことも、往々にして、これに似ています。詳細を見られる時ばかりではありませんが、素晴らしい写真が写っていないということではありません。神が動いておられる様子が見えなかったとしても、そこにおられることは確実です。へブル人への手紙の筆者は「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と記しました(ヘブ11:1)。私たちは信仰によって確信し、その確信を保証します。「神様、何でこうなるの?」という状況のときは特にそうです。

信仰があれば、見えないから進まないとはなりません。ただ、もっと祈り、神の導きをもっと求めるだけのことです。先人の信仰の歩みを知ることも(4-12節)、自分の経験を振り返ることもできます。神は、その御業を再度成すことがおできになります。