ある人に「君は予想に反していた。大嫌いになると思っていたのに、ならなかった」と言われたことがあります。ずけずけとした物言いですが、実は友好的でした。私は彼の国に留学したことがありましたが、昔、私たちの国は敵同士でした。クラスでグループに別れて討論していた時も、彼は距離を置いているようでした。それで、何か失礼なことをしましたかと尋ねると、「全然。でも、そこなんだ。僕の祖父はあの戦争で戦死したから、君の国もその国の人も大嫌いだった。けれども今、僕らはずいぶん似通っているなと気付いて驚いている。友達になれない理由なんて無い」と、彼は答えました。
偏見は人類の誕生当時からありました。2千年前、ナタナエルはイエスがナザレ出身だと知ると、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハ1:46)と言いました。明らかに偏見です。ナタナエルは同じガリラヤ地方の人でしたが、ナザレを見下していました。そこは平凡で小さな村だったからです。また、神の救い主は他の地域から出ると思っていたのでしょう。
はっきりしているのは、この偏見がイエスの愛を妨げなかったことです。ナタナエルはイエスの弟子になり、後に、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と断言しました。どんな偏見も人生を変える神の愛を妨げられません。
あなたが遭遇したり葛藤したりした偏見は何ですか。それと向き合う上で、イエスの愛はどんな役割を果たしましたか。