縁の下の力持ち
ホテルに泊まって朝食に行くと、全てが整っていました。ビュッフェ台には食べ物、冷たい飲み物が揃い、食器もナイフやフォークも、全てが完璧でした。
1月の祈りの課題
祈りの課題を更新しました。今年もどうぞ祈りによるご支援をよろしくお願いいたします。
希望を見いだす
海洋学者シルビア・アールはサンゴ礁の衰退を憂いて、「ホープスポット」(希望の海)の保全と発展を目的に「ミッション・ブルー」という団体を立ち上げました。世界各地の「ホープスポット」は「海の健康にとって極めて重要」な場所であり、皆の暮らしに影響を与えます。この地域を念入りにケアするなら、海中の生態系の保全と絶滅危惧種の保護が可能になるといいます。
嘆き悲しむべき時
聖書にはこう書いてあります。「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある」(伝道者の書3:4)。津波被害のただ中にある今は、泣く時、嘆く時です。
聖書の中には、悲しみの歌がたくさんあります。神の忠実な民が自分たちの状況を嘆き、なぜ神はこのようなことが起こるのを許されるのかと、疑問を投げかけています。これらの歌には、個人的に苦しみの中にある人々の歌と、国を愛する人々が国にふりかかっている災いを見て嘆いている歌があります。旧約聖書の「哀歌」では、一巻の書簡を通して、民の苦しみに対するエレミヤの嘆きがつづられています。
エレミヤはこう叫んでいます。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」(エレミヤ9:1)。彼は自分の魂の痛みゆえに泣こうとしました。エレミヤの語ることばは、泣くことは魂の痛みに癒しをもたらすことを示しています。家族や地域社会、あるいは国のことで心を痛める時、その悲しみを溜め込まずに表現するなら、前向きになって人の役に立つことができます。
ネヘミヤがしたことも、これと同じでした。エルサレムの惨状を耳にした時、彼は泣き、何日も嘆き、断食し、祈り、ついには王が彼の深い悲しみの表情に気がつくまでになりました。しかし、この嘆きの期間が終わった後、ネヘミヤは行動を始め、2,500年を経た今も、そのすばらしい指導力が偉大な模範として語り継がれる国家的英雄となったのです。
聖書の中で、人々はいろいろな方法で嘆きを表しています。断食(Ⅱサムエル1:12)、荒布をまとう(創世記37:34、Ⅱサムエル3:31)、灰をかぶる(エステル4:1-3、エレミヤ6:26、25:34)などです。私たちは嘆きを表すのに、自分自身の文化においてふさわしい表現を見つける必要があります。家族や教会、地域社会、あるいは国全体が悲劇に見舞われたとき、断食して祈るのは望ましいことだと言えるでしょう。一方、スリランカでは津波のあと、嘆きを表すのに白旗を掲げました。それぞれの文化は、悲しみを表すのに独自の表現方法を持っています。
スリランカに初めてプロテスタントを伝えたのは、西ヨーロッパの宣教師たちです。歴史的に見て、この宣教師たちは人前で感情をあらわにすることはありませんでした。そのため、今でもスリランカでは、私たちプロテスタントのクリスチャンは嘆きを表向きに表すという習慣がありません。しかしスリランカでも、ポルトガルから最初の宣教師たちが来たローマカトリックの人たちは違います。彼らのお葬式は、まるで聖書に出てくるドルカスが亡くなった場面のようです。「やもめたちはみな泣きながら、彼(ペテロ)のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」(使徒9:39)。プロテスタントである私たちも、聖書的な理解に沿いつつ、私たちの慣習に合う嘆きの表現方法について真剣に考える必要があります。
慰めの時
パウロは神についてこう描写しています。「慰めの…神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(Ⅱコリント1:3-4)。多くの人々が精神的な傷を受け、悲しみ、話しを聞いてくれる人を必要としている中、神から慰めを受けた私たちが人々に癒しをもたらすためにできることが多くあります。
惨事によって感情的、精神的な傷を受けた人々を助けることの重要性は、今日では社会的にも認知されてきたのでしょう。今もプロのカウンセラーたちが被災地域に次々と入っています。専門家の働きが必要とされている一方、その専門家たちは、被害を受けた人たちの知人である普通の人たちとの交流が大きな力を持っていることも指摘します。この人たちこそ、長期にわたってごく自然な方法で彼らの世話をすることができる人たちです。
今最も求められていることは、被災した人たちをできる限り災害以前の状態に近い「普通の」生活に戻してあげることです。専門家ができる重要な仕事のひとつは、人々を家族、友人、仲間、近所の人たちとの「普通の」人間関係に戻すことです。彼らはこのような人間関係の中に力を見出すからです。
精神的な傷を受けた人々を助けるために私たちができることは、ただ一緒にいて、彼らの話を聞いてあげることかもしれません。しかし、彼らが早く普通の生活に戻れるようになるためには、時には彼らに話して聞かせる必要もあります。
専門家の間では、カウンセリングの現場で普通に用いられている手法をそのまま、ひどい精神的外傷を負った人に対して行ってはいけない、ということが知られています。例えばカウンセリングでは、傷付いている人に、その痛みや原因について話してもらうのが普通のやり方です。ところが精神的外傷のケースでは、その人の心の整理がつくまではこれをしてはいけません。それには長い時間が必要なこともあります。精神的外傷を引き起こしたトラウマのことを、あまり時間が経っていない時に話すと、自分ではコントロールできない感情の乱れを引き起こすことがあります。
ひどい恐怖やうつ症状、引きこもり、沈黙、ショック状態、悪夢を見たり泣き出したりすることは、私たちが経験した津波のような悲劇に対する自然な反応です。ほとんどの場合、このような症状は時間とともに消えていきます。ですから私たちは、このような人たちのことをすぐに決め付けずに、理解するように心がけましょう。これはキリストも模範を示されていることです。イエスは天を離れ、私たちの所に来て、私たちのことを私たち以上に理解してくださった方です。
私の友人であるアルル・アンケテル医師は、何人かの人たちとフルタイムで医療活動をしています。彼は津波の後の難民キャンプで、ある老人を診ていました。この人にはひどい心臓発作の症状が見られたのです。アルルはもうひとりの医師を呼んで検査をしましたが、その原因は心臓発作とは全く違うものでした。この男性は津波で何人もの家族を失っていました。アルルたちはこの男性と話しをして、彼のために祈りました。するとどうでしょう。彼は症状が治まっただけでなく、この医師たちが祈った神についてもっと知りたいと強い関心を持ったのです。
津波の後、今でも水に触れるのを怖がっている子供がいます。ある学校を訪ねた時、先生は私に、すぐにでも学校を再開したいと言いました。しかし、学校の場所が海に近く、親たちは授業をしている間の短い時間であっても子供たちから離れたくないと、子供を学校に送り出すのを反対しているそうです。このような状況に対処するには、現状をよく理解することと知恵が必要です。
今は救援スタッフたちも慰めを必要としています。彼らも働きの中で、感情的に非常につらい経験をしているからです。津波による壊滅的な被害を受けた場所に最初に行った時、私は大きな衝撃を受けて泣きたくなりました。仲間のひとりが津波の直後に同じような場所に行きましたが、そこで彼は多くの遺体と信じられないような惨状を目の当たりにしました。彼はこらえ切れなくなって車に戻り、ひとり車の中で泣きました。
悲惨な状況に身を置くことは、私たちの心と感情に深い影響を及ぼします。ケアを与える側の必要にも配慮しなければなりません。彼らには心の痛みを他の人と分かち合い、クリスチャンたちによる慰めと、神からの慰めが得られる機会を持つ必要があります。
傷付いた人々に対してクリスチャンが働きかける時、覚えておかなければならない大切な真理があると思います。それは、人となった神は、悲劇に巻き込まれた人たちが苦しむのと同じ多くの苦しみを経験された、ということです。イエスは生まれてすぐに悲惨な死からかろうじて逃げ延び、家族は母国から逃れて異国の地で難民生活を強いられました。助けようとして来たその人々から拒絶され、父親は早くに死んだと思われます。少なくとも4人の弟と、何人かの妹たちを養わねばならず(マルコ6:3)、正規の教育を受けることができませんでした。宗教的権力者たちがイエスを無学と見なしていたのはこのためです(ヨハネ7:15)。これは家族が悲劇に見舞われた時に、多くの子供たちが負うハンディキャップです。イエスはさばかれ、不当な判決を下され、犯罪人として、人間が生み出した最も残酷な方法で処刑されるという痛みを知りました。
私がまだ10才くらいだった時、とても恥ずかしい経験をしました。どうしていいか分からない中、心の中に最初に思い浮かんだのが「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」というみことばでした。ずっと後になって、このみことばを私が知っていたということに衝撃を受けました。なぜなら、これは受肉した神であるイエスご自身のみことばであるからです(マタイ27:46)。イエスは私たちが経験するのと同じ痛みを経験されました。この方こそ、苦しむ人々がともに痛みを分かち合うことのできる神です。
人間の最大のニーズは、この「あらゆる慰めの神」と個人的な関係を持つことです。救援活動の忙しさの中にあっても、人々は神の救いを受ける必要がある、という観点を失ってはなりません。同時に、神は決して人をあやつるようにしてご自分のメッセージを受け入れさせはしないことも覚えておく必要があります。神は救いの方法に関して、人と論じ合う方です(イザヤ1:18)。人々が、単にクリスチャンから援助を受けたからといってキリストを受け入れる、というようなことがないよう注意しなければなりません。神はイエスを通して自分の最も深い必要に答えを与えてくださった、ということを心と知性において信じ、それゆえにキリストを受け入れるべきだからです。
災害は私たちにとって、クリスチャンとしての信仰を働かせる特別な機会となります。災害が起こる時、クリスチャンは自らに問う必要があります。「今この時、私は何を考えるべきだろうか。この危機に、私はクリスチャンとしてどう応答すべきだろうか。」
注意すべき時
第二テモテ2章で、パウロはテモテに苦しんで懸命に働くよう励まし、5節では「規定に従って競技をする」運動選手のようでありなさいと教えています。私たちが一生懸命走っている時は、つまずいたり倒れたりしやすいものです。残念ながら、救援活動で一生懸命働いている人たちの中にも、絶対に従わなければならない基本的な規定に従っていない人が多くいます。私たちは救援活動に関わる上で、聖書的原則と、クリスチャン奉仕者としての基本的原則に従っていることを再確認する必要があります。
例えば、私たちが置かれているような緊急の状況では、ひとりで神と過ごす時間をとったり、妻や夫、そして子供と一緒にいる時間をとったりするのは難しいかもしれません。しかし、それが長く続くことがあってはなりません。
もし私たちが神と過ごす時間を長くとらないでいると、霊的な健康が損なわれます。もし私たちが妻や夫、家族と一緒にいる時間を長くとらないでいると、健全な家族の関係が損なわれます。もし私たちが睡眠時間を削って休みなしに働き続けるなら、肉体と精神に深刻な影響が出て、体が弱まり、言動もおかしくなってしまうでしょう。
緊急事態の直後というのは、休むことなく自分の限界まで無理をすることが要求されるかもしれません。しかしすぐに、たとえ忙しさの中にあっても、休息とデボーションの時間を確保できるようにする必要があります。一週間に一日は休みを取るという、安息日の原則を守ることもそのひとつでしょう。これは苦しみの中にある人々の世話をしている、すべての人に当てはまります。例えば、病気を患っている人をつきっきりで世話している人は、時間をとって休み、主とともに過ごす時間を確保しなければなりません。もしそうしなければ、すぐにイライラするようになったり、世話をする行い自体がおろそかになったりするでしょう。
休みと霊的養いなしに働き続けるなら、喜びがなくなり、イライラし始め、ついにはうつになってしまうこともあります。W.T.パーカイザーは著書『The New Testament Image Of The Ministry』(Grand Rapids: Baker, 1974, p.133)の中で、カウンセリングをしている人のことばを引用しています。「これまで見てきたうつ病のケースは、すべて疲労が原因で始まったものです。」御霊に満たされたクリスチャンに見られる特性のひとつは、喜びです(ガラテヤ5:22)。クリスチャンが喜びを失う時、その人はクリスチャンらしく振る舞うことを止めてしまいます。この喜びが私たちに力を与えてくれるからです(ネヘミヤ8:10)。喜びがあれば、困難な状況の中でも、心血を注いで神に仕えていくことができます。時には私たちも、起こった出来事の悲しみから泣くこともあるでしょう。しかし心の深い所で、私たちはこの喜びを主にあって持っています。それは、たとえ悲しみのただ中にあっても、私たちを愛し、私たちが深く愛している主との交わりを喜んでいるからです。
救援活動の歴史の中で残念なことのひとつは、救援スタッフたちの中に性的な罪やその他の罪に陥ってしまう人たちが多くいることです。家族のひとりが救援スタッフとして働く結果、深刻なダメージを受けた家庭が多くあります。多くのスタッフが精根尽き果て、二度と活動に戻ることができなくなってしまいました。
これとよく似た例は、重病の子供を抱えた家族に見ることができます。この長くつらい状況の果てに、離婚してしまう夫婦があります。ふたりはこの子供の世話をするという重労働にあまりにも一生懸命であったため、自分たちの結婚関係をおろそかにしてしまったのです。彼らは子供の病気のために一緒に懸命に働いたのですが、やがて子供が亡くなった時、ふたりはお互い非常に遠い存在になってしまっていることに気づきました。
緊急の状況においてこそ、「自分自身に…よく気をつけなさい」(Ⅰテモテ4:16)という警告に目を留めましょう。私たちは疲れてしまうと、不注意になりがちです。そのような時、ついつい気が緩んでしまうことがあります。だから私たちは、疲れている時こそ、個人的な生活の面で特に注意深くあるべきです。
私たちは、仕事をする態度についても注意する必要があります。もし私たちが神に喜ばれないようなやり方で働くなら、終わりの日のさばきの時に、その働きは神によって価値がないと見なされ焼き滅ぼされてしまうと、パウロは警告しています(Ⅰコリント3:12-15)。私たちが注意すべき仕事上の間違いには、次のようなものがあります。
- 自分たちがしていることを大げさに言ったり、活動報告を使って自分たちに栄光を帰することがないように気をつけなければなりません。私たちが何かをすることで、栄光を受けるのは神おひとりです(詩篇115:1、イザヤ48:11)。自分たちや自分たちの団体に栄光を帰するようなことをしてしまう誘惑に陥らないよう、常に気をつける必要があります。
- 受け取った資金の使い方についても、注意しなければなりません。緊急を要する多くの働きがあるにせよ、この国で適切と見なされる会計処理がなされなければなりません。残念ながら、救援活動の中でも金銭的な不正行為が多くあります。その中には善意を持った人たちが、処理を誤ったために始まったものがあります。
- 津波の被害で、国には非常に大きな必要が生じました。この必要に応えて多額の資金が送られてきています。私たちが直面するであろう大きな誘惑は、このお金の一部を自分たちの贅沢のために使ってしまうことです。今日、一部の救援スタッフの贅沢な生活ぶりはスキャンダルになっています。クリスチャンはこのような誘惑に負けてはなりません。誠実な生き方をしてこそ、この国で苦しんでいる大勢の人々と一緒になって働くことができるのです。
計画すべき時
第一コリント16章1~14節は、ささげものを受け取り、それを使うことにおいていいかげんであってはならないことを示しています。この原則は救援活動と復興活動の働きにも当てはまります。箴言には、戦いをするには良い計画と、助言を得てすぐれた戦略を立てることが必要だと書いてあります(箴言20:18、24:6)。これは私たちが今行っている、人々の必要に応えるという「戦い」に当てはまります。十分な計画がなくては、多くの時間と労力、物資と資金が無駄になりかねません。必要のある多くの人々のもとに届くべき物資が届かなかったり、ある人々のもとに必要以上のものが与えられたりしてしまいます。これはすべて計画不足のためです。
計画を立てることは、緊急の救援活動から次の復興再建の段階へと移るにあたって、特に必要とされます。小さなグループは、他の団体と協力関係を持つのが賢明かもしれません。他の教会やグループと一緒に働くことは、私たちがキリストにあって持っている一致を証する素晴らしい機会です。
教会には意欲のある有能な人々が多くいます。救援復興活動に対する資金と専門技術を持ってはいても、十分な人手のない専門家グループにとって、教会は重要な人材の供給源となるでしょう。これは伝道者の書4章9節で教えられている原則が当てはまる例のひとつです。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」自分たちだけで最善の働きができると言えるほど、私たちは整えられてはいないし、知識を持っているわけでもないでしょう。このような場合、他の人たちと協力することは、私たちにとって賢明なことです。
今は、教会とのつながりを持たない他のグループを助けることで、国に対する私たちの忠誠を示すべき時でもあるでしょう。私たちはふたつの世界に国籍を持つ者です。私たちはどちらの世界で何をするにも、それを神とその栄光のために行います(Ⅰコリント10:31)。私たちが俗に言う「この世の」組織においてする仕事であっても、それは神のためになすべきです。私たちが自分の仕事を大切だと分かるのは、ここで人々に仕えるようにと、神が私たちを神の証人としてそこに置いてくださるからです。この同じ原則は、近隣のグループや政府によって行われている救援復興プロジェクトを通して、私たちが地域に仕える時にも当てはまります。私たちはキリストの証人としてこのようなプロジェクトに関わり、近隣の人々とともに働く機会を生かすべきです。
ささげるべき時
アガボがアンテオケの教会で、エルサレムにききんが起こることを預言した時、この生まれたばかりの教会はすぐに援助を募り、ささげられたものをエルサレムに送りました(使徒11:27-30)。後になってパウロは、エルサレム教会の必要を助けるために多くの異邦人教会から献金を募りました(Ⅱコリント8-9章)。困っている人たちにささげるというのは、キリスト教の重要な教えです(申命記15:7-11、マタイ5:42、19:21、ルカ12:33、ガラテヤ2:10、Ⅰテモテ6:18、ヘブル13:16)。
神の民にとって今は、苦しんでいる人々を助けるために持っているものの中からささげる時です。私たちは「信仰の家族の人たち」、私たちの霊的家族に特別な責任を持っているとパウロは教えています(ガラテヤ6:10)。ですから私たちの最初の責任は、キリストにある兄弟姉妹たちに対するものです。しかし私たちのささげるという行いは、それを超えてさらに困っている他の人たちへと向けられなければなりません。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさいという命令は、新約聖書の中に7回繰り返されています(マタイ19:19、22:39、マルコ12:31、ルカ10:27、ローマ13:9、ガラテヤ5:14、ヤコブ2:8)。
多額のお金と大量の物資が国外から送られて来ているため、それに比べると自分のささげものはあまりにも小さく、ささげる必要がないのではないかと考えるかもしれません。しかし覚えておかなければならないのは、ささげものの価値はその金額の大小で決まるのではないということです。イエスはやもめのささげたレプタ銅貨のことを話し、教えました。やもめは神殿での献金にわずかのお金しかささげることができませんでしたが、イエスはそれを見て、「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」と言われました(マルコ12:43)。
クリスチャン指導者は会衆に対して、たとえわずかのささげものであっても、それを通して神が働かれる時に大きな力を持つことを教え、ささげることを励ます必要があります。私たちは人々に、どのように、どこで、いつささげることができるかを明らかにしておく必要があります。パウロがコリントの人々にエルサレムへの献金を励ましていた時、第二の手紙の中で彼は多くのスペースを使ってその説明をし、この働きに加わるようアピールしています(Ⅱコリント8-9章)。彼はこの献金がどのようにささげられるべきか、またささげられたものがどのように扱われるかについても明らかにしています(Ⅰコリント16:1-4)。
祈るべき時
クリスチャンができる最も強力な働きは、祈ることです。パウロによれば、有効なとりなしの祈りは重労働です(コロサイ4:12-13)。旧約聖書時代、国が危機に直面した時、敬虔な指導者たちは国民に祈るよう呼びかけました。それはしばしば、断食を伴いました。国家的な惨事の時にも断食をしました(Ⅱサムエル1:12)。ヨシャパテ王の時代、外国の敵の大軍が攻めてきた時、彼は「恐れた」と記してあります。しかし彼が次にとった行動は、「ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した」というものでした(Ⅱ歴代誌20:3)。私たちは、ヨシャパテのとるべき行動はまず軍隊を召集して戦いに備えることだ、と思うかもしれません。しかし彼は断食を布告し、祈りのために民を集めました。その結果は神の介入とめざましい勝利でした。
どんなに忙しい状況にあっても、私たちの救援活動の大切な働きのひとつは、個人的な祈りと、グループでともに祈る祈りであるべきです。祈りの素晴らしいところは、クリスチャンであれば誰でもできる働きであることです。若くても、歳を取っていても、健康であろうと、ベッドで寝たきりであっても、祈ることはできます。国家的な危機であろうと、地域的な危機であろうと、クリスチャン指導者は人々に祈りと断食を呼びかけるべきです。
今、直面している祈りの課題には次のようなものがあります。
- 愛する人や所有物を失い、苦しみの中にある人々に神の恵みがあるように
- 深い心の傷を負った人々にケアが与えられ、住む家を失った人々の住居の問題が解決するように
- 避難所生活を送る人々の必要が満たされ、女性や子供といった弱い人たちが襲われるようなことがないように
- 今、クリスチャンたちが立ち上がり、奉仕の働きに犠牲的精神をもって関わるように
- 教会にリバイバルがもたらされ、行動とキリストを証することを通して神に栄光を帰すことができるように
- この土地に癒しをもたらすためにどのような働きをすることができるのか、私たち一人ひとりに神の導きがあるように
- 救援活動、復興活動と、それに関わるグループ(特にクリスチャン団体と教会)のために、そして被災地域に資金を分配する権限を持つ政府当局のために
- 汚職、浪費、計画性のなさ、その他救援活動を妨げるあらゆる問題が最小限に抑えられるように
- 復興プロセスを左右する政策を作る、政治的リーダーたちのために
- この国の復興という大きな仕事のために、十分な物資と資金が与えられるように
- この惨事を通して、私たちの国が平和を取り戻せるように
- 神の栄光がますます輝き、人々が神を求め、救いを見いだすように