やっていないとうそをつき、逃げ切ろうとしましたが、神に止められました。中学生の頃、吹奏楽部の演奏中に後ろから口の中でかんで固めた紙くずを投げた生徒の1人でしたが、元海兵隊員で厳しい罰を与えるという評判の校長が恐ろしく、うそをついたのです。そして、父にもうそをつきました。

しかし、神はうそをつき続けることを許されず、私は罪悪感に苛まれました。何週間も抵抗した後、ついに降参し、私は、神と父に赦(ゆる)しを請いました。その後、校長の家に行き、涙ながらに告白すると、ありがたいことに赦してもらえました。

あの時の安堵(あんど)と爽快さを忘れることはないでしょう。罪悪感から解放され、数週間ぶりに幸せな気分になりました。旧約聖書のダビデも罪の自覚と告白について、次のように語っています。「私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり……昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり……私は自分の罪をあなたに知らせ」たと(詩32:3-5)。

神が重要視なさることは誠実さです。私たちが神に罪を告白し、そして不義を働いた人に赦しを請うことを望んでおられます。ダビデは「あなたは私の罪のとがめを 赦してくださいました」と述べました(5節)。神に赦され解放されるのは素晴らしいことです。