Month: 8月 2024

父の自死とそれからの私

世界中で毎年七十万人近い自死者がいると推定されています。その亡くなったひとりひとりには家族や友人がいます。著者アルバート・シー氏もその一人です。 ここには、遺された人がたどる悲しみや苦しみの道、その只中で神がどのように寄り添い、生きていく力をくださるのかが、正直に丁寧に記されています。

監修翻訳: ナインの会(クリスチャン自死遺族自助グループ)

本プランは同タイトルの探求の書を再構成したものです。PDF版は弊社ホームページからダウンロードできます。引用・参考文献についてはPDF版をご参照ください。

健全な助け方

その光景に胸が張り裂けそうでした。55頭のゴンドウクジラの群れが、スコットランドの浜に打ち上げられました。ボランティアたちの努力にもかかわらず、結局、死んでしまいました。こんなことが起こる理由は分かりませんが、クジラの群れが持つ強い絆が原因かもしれません。1頭に何か起こると別の1頭が本能的に助け寄り、次々と皆が災いに引き込まれるのです。

あなたの手にあるもの

主に救われ、神に人生をささげてから1、2年後、神が文筆業を辞めるように言われていると感じました。それでペンを置きましたが、神の栄光のために召し出され、再び書く日が来てほしいと思わずにはいられませんでした。そんな荒野の中で励まされたのは、出エジプト記4章のモーセと彼の杖の記述でした。

悲しみによる成長

「悲しみを乗り越えることなどありえない。悲しみは変わらない。時間が経つにつれ、むしろ思い出は湧き出す。生きる限り悲しみはなくならない」―ウェンデル・ベリー

自死遺族はどのように生きていくのでしょう。年月と共に悲しみは変わり、直後のような痛みを感じることはなくなるでしょうが、悲しみは旅のようなもので、本当に「乗り越える」ことなどできません。死別により、私たちは後戻りできない変化を遂げました。ある婦人は、父親を二十五年前に自死で亡くしてから毎日違った形で悲しみ続けていると言いました。

父が亡くなった時、私は二十代でしたが、これから社会に出ようとしている自分を励まし、道を示してくれるはずの人を失ったことを悲しく思いました。父親のような人を探しはしたものの、できたら父に具体的な相談をしたかったのです。中年になった今はまた感じ方が違います。息子たちには、おじいちゃんがいない。家族の誕生日や休日などに、父の不在を痛切に感じます。歳を取るとはどういうことなのか、自分のような中年の時、父は何を考え何を感じていたのか。そういう種類の会話は決してできないと思うと確かにつらいのです。

悲しみによって心を固くする人もいれば、逆に柔和になる人もいるそうです。同じ自死遺族として言いますが、悲しみによって心を固くしたり世を恨んだりしないでください。かえってより感じやすく愛情深く他人の必要に応えられる人になっていただきたい。

神は悲しみを作られたわけではありませんが、悲しみを贖(あがな)うことができる方だと私は信じています。時間はかかりますが、悲しみを用いて私たちの人格を磨き、自分も他人も癒やす人に神によって変えられたいものです。苦しんだからこそ、この世には膨大な悲しみがあることを知ることができました。苦しむ人々に寄り添う心を神に育てていただきたいのです。

喪失を体験して自分が変わるばかりか、周囲にもその変化が及ぶ可能性があります。この悲しみが、同じような痛みを経験した人につなげてくれます。

ポール・ボースウィック宣教師とデイブ・リッパー牧師は、共著『苦しみを通じた交わり』(邦訳なし)で、他者の苦しみと一体感を持つために、私たちの苦しみが役に立つと言います。

「苦しみは私たちを、神とのより深い交わり、人とのより親密な交わり、美しいけれども堕落した全世界とのより幅広い交わりの扉を開いてくれる。……私たちの全ての痛みを用いて、神が心痛む人々との出会いにお導きくださり、私たちのよみがえられた王との交わりにある力・癒やし・いのちを共に味わえるようにしてくださいますように」

故人を悼むとき、私たちは自分がより大きな集団、同じように互いを必要とする多くの遺族の一員であることを知らされます。悲しむあまりに、心を固くして自分の殻に閉じこもらないでください。むしろ自分が神の慰めと癒やしを経験して、それが痛みに耐えつつある人々にも届くようにしてください。癒やしは一つのプロセスですから、人により時間は異なるでしょう。悲しみの旅路を歩み続けるのに役立つ具体例を挙げます。

具体的な助言

・居場所を見つける

自死遺族はあなた一人ではないし、一人でこの旅を進むべきでもありません。分かち合える友、信頼・居場所を見つける自死遺族はあなた一人ではないし、一人でこの旅を進むべきでもありません。分かち合える友、信頼できる友、安心して嘆きを言い表せる人、または困難な疑問をも話せる人を周囲に増やすのです。牧師やカウンセラーに相談しても良いでしょう。

・体に気を配る

バランス良い食事と十分な睡眠をとりましょう。休息しましょう。運動しましょう。体を動かすことは、心身が悲しみを受け止めるのを助け、免疫力を高めます。

・自分に優しく

自分を責め傷つけていると気付いたら、心痛む人にあなたが接するように自分にも優しくしてください。ペースを落とし、好みの喫茶店でコーヒーや紅茶の香りを楽しむ、映画鑑賞をする、ペットと散歩に出かけ自然の中で一人の時間を楽しむなど、自分のためになることを敢えてしてみましょう。

・食べ物、アルコール、薬物に逃げない

それとなく自分に注意を払ってくれるように、友人や家族に頼みましょう。心配してくれる人を迷惑がらないことです。自分が不健康なパターンに陥っていると思ったら、助けを求め、カウンセラーに相談し、自助グループに行くこともできます。

・あわてない

愛する人を失ってから少なくとも一年は、遠くへの引っ越し、拙速な結婚、失った子どもの「代わりの子」を妊娠するなど、大きな人生の決断はしないことです。「悲しみの真っ只中にいるのだから、今は大きな決断はしない」と自らに言い聞かせます。

・美しいものに触れる

散歩をする、音楽を聴く、美術館に行く、心を養うものに目を向けるなど、自分に良いものや希望を与えるものを見つけましょう。

・ボランティア

初めは気が乗らないでしょうが、ボランティア活動は悲劇を前向きな生き方に変えるすばらしい方法です。その時が来たら困っている人に手を差し伸べてみましょう。人助けは自分の心の癒やしにもなることを知って驚くかもしれません。

最後に

「夢が壊れても、それで全てが終わってしまうわけではない。痛みは強いが、致命傷ではない。失ったものは大きいが、永遠の損失ではない。死は我々の敵ではあるが、死で終わらない世界がある」(ルース・パディーラ・デボースト*)

悲しみつつも、人は前に進めます。悲しみに押し潰つぶされず、むしろ悲しみを同伴者として人間の幅を広げてもらえます。時には暗くもなるでしょうが、そんな時も常に神がそばにおられ、心を配って下さり、たましいに希望といのちをもたらされます。神は私たちの悲しみをご存じです。悲しみを分け合い、悲しみを通り抜けて向こうまで共に歩まれます。イエスの復活により全てが新しくされます。聖書の物語の最後には約束があります。この堕落した世界の様々な悲しみは過去のものとなり、死そのものが打ち負かされ、全ての涙はぬぐわれる。(黙示録21章4-5節)それを知っている私たちは、図らずも先に世を去った愛する者を悼みつつも、希望を失うことなく、この人生を最後まで生き抜くことができると私は信じています。

*ルース宣教師は、かつて南米で宣教師の夫とアンデス山脈の山道を運転中に強盗に襲われ、夫を失っている。

デイリーブレッド社特設サイト「あなたはひとりではありません」も是非ご覧ください。

衝撃

世界中で毎年七十万人近い自死者がいると推定されています。その亡くなったひとりひとりには、通常六人から十人のサバイバー・親・伴侶・子ども・兄弟・親族・友人・知人がいます。ということは、この特殊な悲しみを味わう人々が世界中で毎年数百万人いることになります。私もその一人で、父を失いました。

父テリーは、電気工学の博士号を持つ有能な人で、宇宙からサテライト画像を使って地図を作成する技術を開発していました。ところがある年の十一月、脳卒中を患い、命は取り留めたものの左半身に麻まひ痺が残りました。リハビリで回復し始めましたが、脳卒中の影響で働けなくなり、絶望感に沈み鬱(うつ)病になりました。医療費のために一家が破産に追い込まれていると思い込み、希望を失ってしまったのです。

病を得て三ヶ月後、もうこれまでと部屋の戸を閉じ、命を断ちました。享年五十八歳でした。そのおぞましい知らせを電話で知らせてきた母は、むせび泣いていました。私は、ショックのあまり何も感じられませんでした。こんなことがうちの家族に現実に起きるなんて……。これからどうすればいいのだろうか。

家族や友人の自死は誰にとっても最大級の衝撃です。二度と元の生活には戻れません*。心身が混乱し、答えの出ない幾つもの疑問に悩みます。自死で先立たれることを、カウンセラーは「複雑な悲嘆」または「複雑な死別」と呼びます。それは二つのこと、家族をさまざまな状況で失うときの当たり前の「悲嘆」と「心的外傷(トラウマ)」が同時に起こるからです。心的外傷は、輪を掛けて精神と神経系統全体を打ちのめします。復員兵や無差別殺傷事件、震災犠牲者の遺族の経験に似ています。後々まで影響は残り、心身を休め癒やされて新たな生活をしようとする時の妨げとなります。

*米国で2020年に4万4,834人、日本では2021年に2万830人と報告された。WHOによると世界中で毎年推定70万人に上る。ほぼ45秒に1人、1日に約2千人である。ただし多くの自死はそのように報告されないか事故として処理される可能性があるため、実数はさらに多くなろう。

初めの衝撃の後も、悪い知らせを聞いた瞬間がふとよみがえることがあります。それは昼間起きている時だったり夜の夢の中だったりします。不安・パニック・怒り・集中力の欠如などがよくある症状です。慢性疼痛や消化不良を訴える人もいます。私たちの多くは、何か怖いことがまた起こるような気がするのと同時に、自分には何もできないという無力感から抜け出せないと感じます。

それとは逆に「機能停止」という症状が現れる人もいます。無感覚状態です。しかし、それ自体無害である物音・風景・匂いまたは何かの生理的感覚が、心の大嵐を呼び起こします。解決されていない心的外傷が、理屈に合わない恐怖・痛み・悲しみを引き起こします。元の事件がまた起きているかのように。重大な危険に直面し何もできなかったことが心と体に深く刻まれ、また起こるかもしれない事件への本能的な反応に影響を与えるために、強い緊張と無感覚の間を行き来したり、その両方を同時に体験したりする人もいます。

恐れやストレスを感じるときに、脳と体がすばやい「闘争・逃走反応」を起こすように神は人間を造られました。その場合、考える前に体が反応します。意志に関係なく、本能的に神経系統が働きます。しかし家族を自死で失うと圧倒的な無力感に襲われます。これが心的外傷です。何か空恐ろしいことが起こって、本能的に何か行動を起こしたいのにそれができない。愛する家族を守るすべが何もない。身を引き裂かれる痛みから逃れる方法もない。起きたことを頭から消し去る方法もない。

それで、遺族は二つのつらい現実に直面します。家族の死を悲しむことに加えて、自死という特別な心的外傷を抱えます。心的外傷後ストレス症候群(PTSD)は、悲しみを痛みと苦しみと無力感という心的外傷のレベルに引き上げ、回復過程を難しくします。まさにダブルパンチです。死別しただけでも大変なのに、心的外傷が耐えられないものになります。

他にも手強い感情があります。故人に裏切られ見捨てられたと感じるため、憤るのは当然の反応です。殺人事件なら、犠牲者を悼みつつ加害者に怒ることもできます。しかし、この場合、犠牲者本人が引き起こしたことなので、「どうしてこんなことを自分にできるのか。どうしてこんな別れ方ができるのか」と私たちは叫びます。自ら世を去った家族を嘆きつつ、当人に向かって腹を立てます。

容赦ない罪責感が心をむしばみます。「どうしてわからなかったのか。何とかして止められなかったのか。止めるべきだったのに」。看護師の母は、父が倒れた後、介護しました。鬱(うつ)の危険な症状は察していて打つべき手は全て打ちました。危険物は家から取り除き、経過観察のために入院もしましたが、それでも悲劇を防げませんでした。妻としても介護者としても失敗者だと強い自責の念に駆られました。

恥の感情も付きまといます。多くの地域では、自死・鬱(うつ)・精神疾患について話すことが、スティグマ(不名誉)もしくはタブー(禁忌)でもあります。実は恥が自死の要因また結果にもなりえます。鬱(うつ)や精神疾患を恥ずかしく思う地域では、必要な精神衛生上の助けを受けるためらいがあります。死んだ方が家族にとって良いと故人は考えたかもしれません。遺族も、恥ずかしさのために必要なサポートを得られないことがありえます。

遺族によっては、絶望感のあまり自己破壊的行為に及ぶこともあります。身近な人が亡くなったので死がより身近に思えます。故人の思いを理解しよう、その跡をたどろう、またその行動を繰り返そうとさえするかもしれません。ある遺族は、故人が使った銃を持って鏡をのぞきこんだ、バルコニーの柵に立って彼女はどのように飛び降りたのかと考えたと語ります。心痛を麻痺させるためにアルコールや薬物に逃げ込む人もいます。

この種の反応を避けるには具体的な行動が必要です。もしあなたが絶望感に悩んでいるなら、信頼できる友人に話を聞いてもらいましょう。身近な福祉行政またはキリスト教会から助けを得ることもできます。自己破壊的なことをしないようにあなたを支え見守ってもらいます。故人には何もしてあげられなかったかもしれませんが、今はあなたにもできることがあります。家族を失う悲しみを重ねないようにしたいものです。

究極的には、自分は独りではないと知る必要があります。家族を自死で失うと、自分の経験が分かる人など誰もいない、と世間から切り離された思いがします。確かに老衰・ガン・交通事故などによる「普通の死」とは違いますが、多くの人々が家族の自死を経験しています。あなた独りではないのです。

自死遺族の自助グループ*が、私の癒やしには不可欠でした。家族を自死で亡くした人が地域で集まり、互いに経験を分かち合う集いです。最初は、このような痛みや個人的な体験を、初対面の人に話すことがぎこちなく思えましたが、他の友人にはできない形で、同じサバイバーが安全な場所を提供してくれることを私は感謝するようになりました。このように心底打ちのめされたのは自分だけではない、と知る必要がありました。このトラウマを通って生き延びている人たちがいるのだから自分にもできるのだと。あなたも必ず生き続けることができます。

*日本の自死遺族自助グループは一般社団法人全国自死遺族連絡会(https://www.zenziren.com/)などで見つかる。クリスチャンによる自助グループは、ナインの会(https://nain-christian.com/)がある。

偽りの罪責感

精神科の救急で働く二十代女性の看護師が、母を自死で亡くしました。トラウマの悪影響は明らかに長引きました。母が亡くなったことで身動きが取れないように感じ、恐ろしいことがまた起こるかもしれないという、パニックと不安に悩みました。母親が死んだのは自分のせいだと、娘として看護師として、とてつもない罪責感を抱えました。「今は、恥・罪責感・自嘲・後悔・屈辱・混乱・恐怖、これらを全て感じています。あの日の出来事と感情に圧倒され、普通に母を悼むことも自分にはできていません」

自死遺族のオンラインコミュニティでこれを読んだ遺族が書き込みました。「もしあなたがお母さんの自死の前兆を知っていたら、止めようと最大限のことをしたでしょう。でもあなたは知らなかったし、知るすべもなかった。罪意識を処理するのは大変ですよね。でもあなたの状況を端から見て、あなたは悪くないし責任もありません。読んでいて、あなたがお母さんを愛していたことはよく分かります。あなたには何の責任もありませんよ」

あなたも、なんとかして家族の自死を止めるべきだったと、似たような罪意識に悩むかもしれません*。特に親や介護者にはよくあることです。私たちの多くは動揺し絶望しているために本当の気持ちを隠します。自死遺族と話していて、「他の遺族に伝えたいことは何ですか」と聞くと、よく耳にするのは「独りで責任を背負い込まないように」という言葉です。愛する家族の自死は、あなたがしたことではありません。

*大多数の場合、家族や友人はできる限りのことをしている。しかし親や養育者のうち、虐待やネグレクトをした少数の者にはいくばくかの責任があるかもしれない。その場合は真の罪責感と言える。それでも、真摯に告白し悔い改めるなら赦される。

自死の原因は分からないものです。約三分の二のケースでは鬱が主要因ですが、他にも生物学的・心理的・社会的・経済的理由もあります。究極的には、愛する家族が「唯一の解決は人生を終わらせることにしかない」と思い込み、私たちはそれを防げなかったということです。私たちは悲しみ嘆きますが、責任を背負い込んではいけません。到底負いきれるものではないのですから。

父の死後、母はこの罪責感と長く闘いました。もともと他人の幸せに責任を感じてしまう面倒見のよい人で、解放されるのは一筋縄では行きませんでした。見当違いの方向へ痛みと悲しみを向けたこともありました。医師や病院が父の自死を止める十分な手立てを尽くさなかったと責めることもありました。でも最後は何とか落ち着きを取り戻せました。できることは全て実行した後、いつまでもむなしい罪責感を抱えることはできなかったからです。

悲劇の後、周囲の多くはどのような言葉をかけ何をしたらいいのか分かりません。善意から、つい決まり文句を言ってしまうこともあります。しかし紋切り型の言葉は不要です。むしろ安心して苦しみ・嘆き・悼みを言い表せる場、心痛に耳を貸せる人を遺族は求めています。

悲嘆の表出

クリスチャンであってもなくても愛する者の自死の後に抱く、目に見える世界や科学では割り切れない似通った疑問があります。「神がいるなら一体どこにいたのか。なぜ自死を止めてくれなかったのか。愛する者は永遠に失われたのか。神は私のことを気にかけておられるのか」

まず確認しておきたいのですが、こういう質問をすることは決して悪いことではありません。悲嘆の過程には、これらの疑問の中に隠されている私たちの痛みと感情を、否定せずに全て神のところに持っていくことが含まれます。山上の説教でイエスは「悲しむ者は幸いです」(マタイ5章4節)と言われました。嘆くこと、深く悲しむことは大切です。嘆くとは、思いを吐き出すことです。

聖書時代*も現代のユダヤ人社会においても、悲しみを隠さず、決められた期間悲しむ儀式があります。悲嘆は全人格的な営みで、その表現には心も体も精神も用います。音楽を奏でたり、詩を書いたり、故人の愛車を毎週洗ったりするのも悲しみの一表現です。墓参や故人に縁(ゆかり)のある公園やレストランを訪れること、愛する者の好物を料理し、食卓を囲んで思い出を語りあうこともできます。

*イエスも悲しみを隠さず、愛する友の墓で涙を流した(ヨハネ11:35)。私たちも全く同じで、心の痛みを無理に抑えつけるとむしろ害になる。悲しみを神と人とに分かち合い、内にあるものを外に出すほうが良い。そのようにして、慰めが神からも人からも流れ込む。

聖書の詩篇、いわゆる「嘆きの詩篇」の中に、一つの見本があります。悲嘆は本来、何かぼんやりした形の無いものです。霧の中でぐるぐる回っているかのように。しかし「嘆きの詩篇」には一定の構造があります。それがイスラエルの嘆き方です。今は、悲嘆を「処理する」などとも言います。「嘆きの詩篇」は、嘆きを秩序立て、痛みに向き合って意味を見出すための一方法です。「嘆きの詩篇」は、神への叫びで始まります。

「主よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか」(詩篇13篇1節)

「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」(同22篇1節)

「主よ深い淵(ふち)から私はあなたを呼び求めます」(同130篇1節)

これらは私たちの痛み、私たちの嘆きそのままの表現です。向かう先は神であり、神は私たちが嘆きをぶつけるのにふさわしい相手です。神は圧倒的な重圧にも耐えられる方で、私たちが何をおいても向かうべきお方だからです。嘆きの中で、私たちは神に叫びます。「おお、主よ。こんなはずはありません。愛する人を失って、私たちはすっかり打ちのめされています。どうしてこんなことが起こったのでしょう。どうして彼(彼女)は人生に絶望するようなことになったのですか。人生はどうしてこんなにつらいのですか」私たちは神に助けを求めます。

「主よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください」(詩篇22篇19節)

「私をあわれんでください。主よ。私は苦しんでいるのです。私の目は苦悶で衰え果てました。私のたましいも私のからだも」(同31篇9節)

自分の苦悩、自分と家族がどれほど打撃を受けたかを、また助けを求める切実さも正直に告げます。悲嘆に、予定表はそぐいません。それぞれが自分なりのペースで進めば良いのです。そのうちに曲がり角に来ます。疑問への答えは出なくても、「嘆きの詩篇」の中ほどに転換点があります。

「しかし主よ私はあなたに信頼します」(同14節)

「見よ神は私を助ける方」(同54篇4節)

全ての痛みにもかかわらず、私は神に信頼します。たとえ家族の自死という不幸の中でも、私は神に希望を置きます。心痛を神に向けることで、神がどのような方か、つまり神は私たちの祈りを聞かれるお方、過去の試練を通しても確かに導いてくださったお方であることを思い起こします。「嘆きの詩篇」は、神が私たちの叫びを聞かれ、私たちに代わって働かれるという確信と希望の宣言で終わるのです。

「主はほむべきかな。主は堅固な城壁の町の中で私に奇(くす)しい恵みを施してくださいました。私はうろたえて言いました。『私はあなたの目の前から断たれたのだ』と。しかし私の願いの声をあなたは聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」(詩篇31篇21-22節)

確かに、私たちは悲嘆の中で「なぜ」と問い続けます。なぜこれを自分は予測しなかったのか。なぜ彼はこんなことをしたのか。彼女はなぜ助けを求めなかったのか。

なぜという疑問を発するのに不思議はありませんが、時に袋小路に迷い込みかねません。悪いことが起きると、なぜという疑問に答えられれば慰めと平安が見出せるかのように私たちは必死に答えを探します。苦しみの問題が知的なものかのように、回答を得られれば解決に至ると思いますが、実際には解決はありません。なぜという疑問への具体的な答えが罪意識や責任と絡み合い、複雑になることもあります。なぜ彼はガンで亡くなったか。例えば、食生活、運動不足、環境、遺伝的な要素があったと。なぜという疑問への答えが出ても慰めや希望に至るとは限りません。

究極的には、理由は求められないのです。単純な答え方ならできます。なぜこの苦しみがあり、死があるのか。罪の世なのだから。これが現実です。神の意図したことではないが、悪いことは起きる。人は死ぬもの。答えを追求し続けるなら、結局はそこに行き着きます。

新約聖書の著者たちが「なぜ」という疑問を追求していないのは示唆的ではないでしょうか。彼らは苦しみや悪の起源について知的な問題提起をしていません。私たちも、病や死が普通であるこの世に生きていることを当然のこととしています。全ての人は苦しみ、全ての人は死ぬ。どうしてかは問わなくてもよい。そういうものなのだと。

クリスチャンの見解でより意味深いのは「なぜ」ではなく、「神は何をしておられるか」という質問です。『悪と神の正義』の中でN・T・ライト氏はそういう見方をしています。聖書は、なぜという疑問に究極的には答えません。ここではるかに重要なのは「神は、悪と死と苦難について何をされたか」という疑問への答えです。

神はイエス・キリストにおいて決定的な行動をされました。イエスの死と復活を通して神は死の力に勝たれ、支配と権威を武装解除しました。神は全ての被造物を贖(あがな)われ、全てのものを新しくされます。新しい天、新しい地をお造りになり、全ての涙をぬぐい取ってくださいます(黙示録21章4-5節)。

父の死後、私自身「なぜ」という疑問と格闘して疲れ果てました。そして、苦難・悪・死という問題への神の答えは、何か抽象的また哲学的なものではなく、決定的な行動なのだと結論しました。生活のペースを落とし、すでになされた神の介入のみわざを受け入れることが、心的外傷の悪影響から逃れる助けになりました。父の自死を防ぐことはかないませんでしたが、イエスは私の代わりに既にとても力強く行動されていたのです。死はその刺すような痛みを失いました。死そのものがいつか滅ぼされる。それこそキリスト教信仰の真髄です。私たちは死後に天国へ行くだけではなく、いつか新しいいのちに生まれ変わります。伝統的な復活祭の典礼式文にあるように、主は「ご自分の死をもって、私たちの死を打ち砕き、復活をもって、私たちに命をお与えになりました*」

*J・A・ユングマン/石井祥裕訳『古代キリスト教典礼史』平凡社293頁

嘆く者はみな「なぜですか」と問います。しかし、いつまでもそこに留まらないようにしたいものです。静まって、キリストにあって神が既にしてくださったことと、今もしておられる多くのことに目を留めようではありませんか。聖書が語っているように、静まって(口語訳詩篇46篇10節)、あなたの霊、たましい、からだの全てで主こそ神であることを味わいましょう。

思い出という贈り物

スティーブン・ウェブ氏(1961~2016)は、クリスチャンの大学教授・著者・教会の指導者でしたが、鬱(うつ)に悩み、それを隠し立てしませんでした。ある雑誌の「神と鬱(うつ)病」という同氏の記事です。

「一般的にクリスチャンは鬱(うつ)について語らない。まず、心の痛みは分かち合いにくい。当事者にとっては痛いほどの絶望で、心臓にも負荷があり、脳の働きも鈍る。しかし他人の目には安易に見過ごされるか、全く気付かれないこともあるのがこの鬱という病だ」

氏によれば、鬱に悩むクリスチャンは当然のごとく神に助けを求めますが、「その叫びに神自身が沈黙していると感じる。おそらく、それが鬱の神学的な定義として正しいのだろう。神を痛切に必要とするのと同じくらい、神はいないと強く感じてしまう」

「荒野でひもじさを覚えたり、弟子たちが寝込んでいるゲツセマネの園で祈られたりしたイエスも、鬱に似た気持ちを味わわれたに違いない。鬱に苦しむ人は、長い夜が終わり苦悶が鎮まることを願う。……教会は、鬱病者を忘れないようにしてほしい」

結果的にはこれが遺言となりました。記事が発表されてから一か月足らずで、ウェブ氏は銃で人生を終わらせました。享年五十四歳。妻と五人の子が遺されました。

親友のサミュエル・ローチャ氏は、早すぎたその死を悼んで哀悼の詩を書きました。二人で駆けっこをした時、僕が追い越そうとすると、スティーブンは笑いながら僕を押し退けて先に駆けて行ったな、と。

「ウェブはまた僕を置いて先に逝った。あの時のように追いかけ引き戻したい。

何を聞かされても僕には後悔しか思いつかない。地上の日々は病に苦しめられたが

彼のしたことには大きな愛という動機があった」

ローチャ氏は、友スティーブンの寛大さ、律儀さ、家族愛、受刑者や障がい者への奉仕活動についても触れています。鬱病と自死という厳しい事実は認めつつ、その死が友人の全てではないことも付け加えます。

「ひどい鬱のときは、周りの声も神の声も耳に入らない。最後の文章では、人があまり書かないことを書いている。神は鬱の人を心にかけているだけではない。その苦しみをつぶさにかつ個人的にも知っておられると。友人が鬱との闘いに倒れたことは悲しいが、僕の知っているスティーブンは、よくある鬱病のイメージにはあてはまらない。彼は愛に溢れたヤツだった。悲しくはあるけれどそれが慰めになっている」

この弔辞は、愛する者の自死を悼む私たちの手本になるでしょう。確かに鬱のつらい現実と友人に与えた恐ろしい力を認めつつ、それで終わりません。故人の全生涯を私たちは覚えたいのです。その人生の全体に目を向け追憶しましょう。覚えておきたいことを口にしましょう。良かったこと楽しかったことを、聞いてくれる人に話しましょう。故人の素晴らしさが悲しみの中心を占めるように。