月別: 2024年10月

重荷を下ろす

大学生の頃、シェイクスピアの作品を学んだ時期がありました。教科書はその全作品を網羅した重さ数キロの大きな本でした。授業のある日は、それを何時間も背負って学内を移動します。それで腰を痛め、やがてカバンの金属製のファスナーも壊れてしまいました。

新生の意味

新生とはどういう意味ですかと葬儀屋が尋ねました。喪主の男性は、ヨハネの福音書3章の話をして「新生」の意味を伝えました。「神は、あなたの善行と悪行をはかりに掛けて評価するわけではありません。人生は一度だけですが、神は、御霊によって生まれなさいと言われます。御子イエスが十字架で死なれたのは、それによって私たちの罪の代価を払い、私たちが御霊によって生まれるためです。その新しいいのちでイエスと共に永遠に生きるのです。このことは自分の力では成し遂げられません」

辛い旅路

マリヤとヨセフにとって、試練はそれで終わりませんでした。ルカの福音書2章1節から3節には次のように記されています。

「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。」

マリヤは出産を目前にして、ヨセフと共に、祖先ダビデ王の町、ベツレヘムに行かなくてはならなくなりました。旅の行程は150キロほどで、ロバの背に乗るか、徒歩で行かなければなりません。マリヤがどれほど疲れたかは、想像に難くありません。そしてベツレヘムに着いたころには、すでに陣痛の初期だったかもしれません。宿屋は住民登録に来た人たちで満室で、中に入れてもらえません。彼らは、宿屋から急な坂道を下ったところに洞窟を見つけました。家畜置き場にされているようです。マリヤはその中で、聖なる神の御子イエスを産み、産着にくるむと、餌箱の中に寝かせました。

名も無い夫婦が長く辛い旅の果てに、よそ者として、そこにいました。素朴な田舎娘が、ほとんど自力で初産に臨みました。快適さや便利さをくれる物は何もありません。これらすべてが、誰にも気づかれることなく、淡々と過ぎていくかに見えました。しかし、そうではなかったのです。神には別のご計画がありました。

神の御使いが、再び登場し、近くの野にいた羊飼いたちを恐れされました。地中海の東の端の、辺鄙な町の、きたない家畜置き場で、特別には見えない赤ん坊が、名も無い夫婦から生まれました。しかし、この何の意味も無いように見える出来事に、神のご計画という証印が突然、押されたのです。人の人生を変え、世界を変えてしまう重要な意味が、この出来事にあると啓示されたのです。御使いは羊飼いたちに、次のように言いました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

救い主、キリスト。主なるお方。インマヌエル、神が共におられる。イエス、神の民を罪から救う唯一のお方。アダムとエバに約束されたあがない主(創世記3:15)。そのお方が到来されたなら、被造物なる人が、創造主なる神と、個人的に信頼関係を築ける可能性が回復されます。そのお方は、死の呪いを破ってくださいます。神の御前から断ち切られているという呪いを決定的な御業で打ち破って、私たちを解放し、自由にしてくださいます。

あなたは聖書を通して、このお方の声を聞くでしょう。そのお方は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われます。私たちひとり一人には、すべき選択があります。

 

祈りましょう。

全能の主なる神、私は人類の祖、アダムとエバの子どもなので、あなたに対して罪のある存在です。

マリヤの物語を聞くにつけて、私はいつも圧倒されます。私にはどれほど、あなたのあわれみが必要なのでしょう。

私はあなたを信じます。あなたにふさわしいほど、深く信じることはできませんが、それでも精一杯、あなたを信じます。私は、神の御子を信じます。御子が犠牲になられるほどの価値が自分にあるとは思いませんが、それでも感謝して、御子を信じます。

あなたの忠実なしもべマリヤに、私のあがない主を宿すように計らってくださり、感謝します。あがない主は、現実の世界で生き、私たちの身代わりとして死んで、よみがえられました。

御子は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)。

どうか神さま、この赦しを、そして、このいのちを、私に与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

危険な状況

マリヤは恐らく、エリサベツがバプテスマのヨハネを出産するまで、3か月ほど滞在したと思われます。この3か月、マリヤは神を宿すという不思議と感動、そして期待に包まれて過ごしました。そして、自分が妊娠3か月になる頃、ナザレに戻りました。今度は、婚約者ヨセフや村の人々のさげすみ、そして、彼らの拒絶と向き合わなければなりません。

彼女の苦境を考えてください。マリヤは明らかに、恥さらしと言われる状況に置かれていました。ヨセフとて同様です。当時のユダヤの婚約は、通常、約一年で、それは性的関係を伴わない結婚でした。その期間に妊娠するなら、スキャンダルは拡散します。ヨセフは子どもの父ではありませんから、婚約を破棄することができます。しかし、そうすればマリヤは、石打ちの刑で殺されるかもしれません。けれども、予定どおりマリヤを妻にすれば、敬虔を重んじる伝統をないがしろにしたのは、ヨセフの方だったと思われるでしょう*。

*イエスが誕生した時代、ユダヤの婚約は通常一年ほどでした。それは、妻に迎えようとしている女性が、貞節を守る人であるか否かを、夫の側が見定める期間でした。旧約聖書の律法のもとでは、結婚まで純潔を保たないことは、死に価する罪でした。(申命記22:20-24)

マリヤの妊娠を知ったヨセフの苦悩は、マタイの福音書1章18節から25節に記されています。

「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

ヨセフの苦悩はどれほどだったでしょう。聖書は、妊娠の仔細について、マリヤがヨセフに説明したか否か、まったく語っていません。あなたがヨセフだったら、どうでしょう。マリヤの話、すなわち、天の御使いや神の御業なる受胎という話を信じますか。それとも、マリヤの貞節を疑うかもしれない、と思いますか。ヨセフにもまた、天使の訪問が必要でした。天使が現れて、今の状況に関する真実を教えてもらわなければいけませんでした。

ヨセフは苦しい立場に置かれていました。イエスという子の超自然的な誕生について、超自然的な説明が必要でした。そして、神のみことばが天使を通して語られたなら、それを信じなければなりません。その上で、マリヤの子の父親のような顔をして、神のみことばの示すとおりに、行動しなければならなかったのです。村の人たちは、彼が婚約期間中にマリヤを誘惑したと思ったでしょう。しかし、それがマリヤを守る唯一の方法でした。

公生涯に入られたイエスに、パリサイ人が「あなたの父はどこにいるのですか」と、あざ笑いながら尋ねたことがありました(ヨハネ8:19)。彼らはヨセフが本当の父であるかと、イエスに問いかけたのでしょう。また、彼らは「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」とも言って、イエスはそうだと、ほのめかしているのです。マリヤとヨセフは、明らかに、イエスの件で、世間の評判を落としたのでした*。

どんなに説明をしても、自分たちの名誉を回復することはできません。彼らは、当時の世界で最も高い貞節の基準を持っていた社会の中で、非難にさらされ、恥を負いながら生きていかなければなりませんでした。

*イスラエル人にとって、結婚前に性交渉があったと言われることは、深刻な事態でした。それが律法に対するきわめて重大な違反と見なされていたからです。ヨセフもマリヤも、そのような非難には当たりませんが、それを証しする術がありません。ヨセフは、神のご計画のために、こうした立場を甘んじて受けたのです。私たちは、そんなヨセフの深い信仰と高潔な人柄に目を見張るばかりです。

深い信仰

もしあなたがマリヤだったら、どうでしょう。天使と遭遇し、畏怖の念に心が震えたことでしょう。その上、あがない主をこの世に送り出す器として、自分が選ばれたのです。ガブリエルが去った後、しばらくは茫然として、ただ座っているだけだったかもしれません。

マリヤがこの体験を踏まえて、尋常ではない妊娠が起こるという現実を消化するのに、どの程度の時間が必要だったのか、私たちには分かりません。しかし、聖書によると、彼女が「立って山地にあるユダの町に急いだ」(39節)のは、それほど後のことではなさそうです。彼女は、その町に住む親類のエリサベツに会いにいきました。少なくとも、徒歩で数日の旅だったはずです。

マリヤがエリサベツを訪問したのは、彼女が高齢になって子どもを宿したと、天使に教えられたからなのか、それとも、ふたりは元々親しかったからなのか、明らかではありません。しかし、マリヤにとって、エリサベツといっしょに過ごすことは重要だったようです。ともあれ、マリヤがエリサベツの家に着いて挨拶するやいなや、エリサベツは聖霊に満たされて声を上げました。

「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:42-45)

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」アダムとエバは、主によって語られたことを聞いたのに疑いました。一方、マリヤは、神のみことばを天の使いであるガブリエルから聞かされ、信じました。それは、不合理で、不自然で、人間の力では不可能でした。しかし、信じたのです。そして、信じたがゆえに、神のご計画のために自らを差し出しました。

マリヤは、聖霊に満たされたエリサベツの挨拶の言葉に、神への賛美で応じています。マリヤの賛歌は、ルカの福音書1章46節から55節に記されています。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

この賛歌は、旧約聖書のサムエル記第一2章に記されているハンナの賛歌を連想させます*。マリヤは、ハンナの物語だけでなく、ユダヤの歴史であり伝統であるハンナの賛歌を知っていたでしょう。ですから、希望に満ち溢れたマリヤの口から、ハンナの賛歌がこぼれるのは自然なことでした。

*マリヤの賛歌「マニフィカート」と同じように、ハンナの賛歌も心からの賛美です。ハンナは長い間、子どもに恵まれませんでした。サムエル記第一2章に記されているハンナの祈りは、息子サムエルを感謝して心から捧げた神を称える歌で、この息子は主に捧げられました。

自分たちの住む世界は、神が元々意図された世界ではないという明確な理解が、マリヤの賛歌に表れています。アダムとエバの選択の結果、罪と死は世界を貫き、この世は呪われています。マリヤの世界は、残忍で気まぐれなヘロデ王が治めており、ローマ帝国の圧政のもとにありました。イスラエルの宗教指導者でさえ、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りを」していました(マタイ23:4)。

マリヤの賛歌を見れば、彼女は立場の弱い人や飢えた人に心を寄せていたと分かります。彼女は、自分がイエスを宿すという奇跡*を、神が生きて働いておられるが故と理解しました。久しく待ち望んできたことを、神は始めようとしておられる…。すなわち、高ぶる者を追い散らし、権力ある者を、その地位から引き降ろし、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返される…。

神は今、何千年も前の約束を果たすために、動き出された…。人の心をひねくれさせ、頑固にし、この世界を醜い場所にしてしまった、あの呪いの発端となったふたりに、神は、ある約束をくださいました。それが今、成就しようとしている…。マリヤはそう考えたのです。

*イエスの受胎に関する歴史を説明する中に、聖霊の役割が具体的に記されている個所はありません。聖書によると、天使ガブリエルはマリヤに「聖霊があなたの上に臨み」と語ったとあります。私たちに分かっているのは、これだけです。マリヤは、イエスを出産したときでも未だ処女でした。受胎も出産も奇跡のできごとでした。

果たされた約束

ユダの三流の地、ガリラヤ。その中でも三流以下のナザレという小さな丘の村で、その物語は幕を明けました。世界の歴史と、そこに住む何億人という人たちの人生が、これによって変えられました。その物語は、新約聖書ルカの福音書の1章26節から38節に記されています。

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

マリヤの衝撃と戸惑いを想像してみてください。ユダヤ人は神が約束されたあがない主について、何千年も語りついできました。彼らには預言者のことばが残されていて、それによると、メシヤ(キリスト)は、エルサレムの南のベツレヘムで生まれると言われていました。また、メシヤは処女から生まれると言われていました。そして、ダビデ王の家系から生まれることも知られていました。しかし、なぜ今なのでしょう。それも、ベツレヘムから何日も旅をしなければならないガリラヤのナザレという田舎の村で、名もない貧しい少女から生まれなければならないのでしょう。

この約束は、ユダヤ人なら知らない人はいませんから、当然、マリヤも知っていました。もしかしたら、当時の少女たちは、あがない主を宿す器として神に選ばれたいと密かに願っていて、マリヤもそのひとりだったかもしれません。しかし、その日、天使の来訪を受けた驚きは、尋常ではなかったはずです。マリヤの気持ちを想像することができるでしょうか。

天使のガブリエル*が現れたとき、マリヤはひどく戸惑いました。それで、「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」(ルカ1:30)と安心させてもらえる言葉が必要でした。そして、その後、神のお告げがありました。彼女が、約束のあがない主、時代を超えて世界の希望となる神の子の母になるのです。そして、その赤子にイエスと名付けなさいと告げられました。

*聖書の中に名前の記されている神の天使はふたりだけです。ガブリエルはそのひとりで、もうひとりは大天使長ミカエルです。ガブリエルに関する民間伝承はたくさんありますが、その出所は聖書ではありません。その名前が登場するのは、ダニエル記とルカの福音書の二か所だけです。

マリヤの最初の応答が34節に、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と、記されています。彼女は、ガブリエルに不可能と言ったわけではありません。ただ、「どうして、そんなことが起こるのですか」と、けげんに思っただけです。すると、ガブリエルは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」と答えました。神に不可能は無いという証明は、彼女の親類エリサベツの高齢になってからの妊娠でした。

マリヤは選ぶことができました。「ガブリエルさん。申し訳ありませんが結構です。婚約者のヨセフに、そんなことは言えません。こんなに小さな村です。みんなが陰口を言うでしょうから、生まれてくる子どもは、幸せになれません。私たち夫婦も辛いでしょう。私はそういう問題を抱えたくはないのです」と、言うこともできました。しかし、彼女は、そうはしませんでした。彼女の返答は38節のとおり、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」、でした。そして、ガブリエルは去っていきました。

はじめに&呪いと約束

余りに出来過ぎていて、実話とは思えない話があります。はなはだしく不条理で、信じたくない話もあります。思い込みが激しくて、他のことは入っていかない時があるかもしれません。またそうでなくても、何となく、でも、どうしても信じられない、ということもあるでしょう。

しかし、どうでしょう。もしこの世の人生を映した物語が、この世を超越した世界から語られ、その物語が、癒しを求める心の叫びと共鳴していたなら…。このような神秘をやさしく映し出したのがクリスマスだと言われたら、あなたは、それを信じますか。

クリスマスの物語は、信じがたい話かもしれません。しかし、アリス・マシュー博士は、この物語を解き明かし、同時に、すべての人は、これを信じるか、信じないか、という選択を迫られていると、この冊子を通して教えています。

(このプランは同タイトルの探求の書を再構成したもの、また動画と音声は弊社特設サイトで公開したものです。引用文献情報などはPDF版をご参照ください。)

呪いと約束

ある日、目覚めたら、そこは完璧な世界だった、と想像してみてください。ベッドの上で伸びをすると、痛むところが全くありません。メガネをかけようと手を伸ばすと、裸眼ではっきり見えています。驚いて、隣で寝ている夫をゆり起こそうとすると、突然、とてつもなく深い愛情が心に湧き起ってきました。

朝のニュースは、びっくりするほど退屈でした。世界のどこにも紛争やテロはなく、政治家のスキャンダルもありません。電話が鳴るので、抗がん剤治療を受けている友人からかと思ったところ、声の主は息子でした。放蕩息子だったのに、やさしく親を気づかい、家に戻ってきても良いかと尋ねるのです。

今までは、呪われていたようでした。しかし、今は、晴れ晴れしています。…人生が、こうだったら、どれほど良いでしょう。しかし、私たちは完璧な世界など存在しないと知っています。ところが、違うのです。完璧な世界は、存在していました。そして、再び訪れます。ですから、それを待ち焦がれて、心がうずいているのです。

かつて、欠点のない世界で、創造主なる神と、欠点のない関係を結んでいる人たちがいました。アダムとエバです。このふたりは、欠点のない人たちで、「人はこのように造られた」という姿、すなわち、神が定めた理想の姿で生きていました。しかし、別の一面もありました。それは、「人間は、こういう道を選んでしまう」、という現実です。

アダムとエバには禁止されていることが、ひとつだけありました。神からいただいた実り豊かな園の中に、取って食べてはいけない実が、ひとつだけあったのです。ふたりの決断は他愛の無いことのように見えました。木の実をちょっとかじっただけなのですから。しかし、その選択には、深刻な結果が伴いました。その選択のために、すべてが呪われるようになったからです。

まず、ふたりと神との間に溝ができました。その時以来、私たち人間と神の間には溝があります。自分を造ってくださったお方との関係は、すべての人間関係の中で最も重要なものです。それなのに、その関係が壊れてしまいました。

次に、アダムとエバの間にも溝ができました。今日、私たちは、愛すべき人たちとうまくつきあえず、人間関係で悩みます。理想の人間関係は、めったにありません。このことは、この呪いの破壊力が、いかに大きかったかを示しています。

第三に、このふたりは、自然の健やかな営みから引き離されてしまいました。私たちは、雑草に悩まされたり、病気になったり、痛みに苦しんだりします。私たちの苦しみ*に終わりはありません。自然が牙を向くときもあります。私たちは、自然の営みと共存しようと苦労し、やがては、身体がきかなくなって死んでいきます。

*聖書で「苦しみ」または「苦労」と訳されている言葉は、ヘブル語のitstsadonという単語です1。語根はasab2 で、悲しみを意味します。また、罰のためにひどい労働を課され、その働きからは辛い結果しか残らない、という状況も暗示します。それとは対照的な働きは、創世記2章15節の「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」という状況です。アダムとエバの不従順は、すべてを変えてしまったのです。

こんなことになったのは、アダムとエバが、ある美しい朝、神の戒めを破ったからです。あなたには、彼らの苦悩が想像できるでしょうか。彼らは、子孫たちのまったく知らないこと、すなわち、完璧な世界に生きるとはどういうことか知っていました。この呪いのせいで何を失ったのか、彼らは十分すぎるほどに分かっていました。

しかし、神はよいお方です。彼らを絶望の淵に残してはおかれません。神は、その呪いの中に、将来、あがない主が来られるという約束*を埋め込まれました。悪の権化であるサタンは、そのお方のかかとを砕きます。しかし、あがない主は、すべての悪を倒されると、神は約束されました。

* 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章15節 新共同訳)

その約束が与えられてから数千年が経ちました。人々は、神と断絶され苦しんでいました。また、人と人、そして人と自然の断絶に、悩んでいました。神は約束を忘れてしまわれたのでしょうか。それとも、気が変わられたのでしょうか。約束は果たされないように見えました。ならば、この呪いから、誰が救ってくれるのでしょう。

神に希望を託す

ジェレミーは、3年制の大学に入学して、学生寮の最も安い部屋を借りましたが、ひどい所でした。しかし、お金がないのですから、選択の余地はありません。「3年後には快適な実家に帰れるのですから、今は踏ん張ってここでの時間を最大限に活用します」と語りました。

神から逃げる

ジュリーとリズは、カリフォルニアの沿岸でザトウクジラを見ようと、カヤックをこいでいました。ザトウクジラは海面近くで活動するので見つけやすいのです。ところが、自分たちの真下からクジラが現れたのですから、びっくりどころではありません。その様子をたまたま撮影した人の映像には、クジラの大きな口と小さなカヤックと人影が映っていました。彼女たちは少しの間、海に沈みましたが、無事でした。