神学者トッド・ビリングスは、不治の血液のがんだと診断され、死期について、遠くで瞬く灯りが消えていくようだと語りました。「私には1歳と3歳の子どもがいます。この先の10年か20年は、彼らの成長を見守る『広い所』だと考えていました……。しかし、この病気によって、……狭められています」

ビリングスは、この「狭められ」に関して、詩編31編を思い巡らしました。ダビデは、神が「広い所」(9節)に置いてくださったと語ります。彼は敵に追い詰められていましたが、神が安全な城塞(じょうさい)だと知っていました(3節)。そして、「わたしにふさわしいときに……敵の手から助け出してください」(16節)と、神に対する信頼を表明したのです。

ビリングスは、ダビデのように、神に望みを託しています。彼は神学者であり、夫、父親です。今、人生は狭まりつつありますが、それでも、広い所にいると確信しています。その理由は、キリストの犠牲を通して神が死に勝利されたからです。それが意味することは、キリストにあって、私たちは「想像を絶するほど広い所」にいるということです。「聖霊によってキリストと一つになるより大きく広いところがあるでしょうか」

私たちにも嘆き悲しむことがあるかもしれません。しかし、神が避け所です。神は助け、守り、導いてくださいます(2、4節)。私たちはダビデに賛同します。私たちは広い所に住んでいます。