全て赦される
ヘミングウェイの短編小説に、疎遠な息子と再会したいスペイン人の父親の話があります。彼は地元紙に次のような広告を載せます。「パコ、火曜日の正午にモンタナホテルに来てくれ。全て赦(ゆる)すから」。すると、800人の「パコ」がやって来ました。この物語のテーマは人の心の奥底には赦されたいという願いがあるということでしょう。それはイエスのたとえ話を想起させます。放らつな生活を求めて家を出た若い男性はやがて窮地に陥ります(ルカ15:13-14)。そして「我に返って」家に戻ると(17節)、父は駆け寄ってきて、彼に謝罪を口にする間さえ与えず、抱きしめます(20節)。父は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜びました(24節)。この物語で、父は神を表し、息子は私たちを表します。私たちが神の元に戻るとき天の御国は喜びに湧くのです。
悲しみの人とともに歩む 受難週特設サイト 2025
私たちの罪だけでなく、悲しみや痛みを担ってくださったイエスは、周りの人々の悲しみや痛みを担う歩みへと私たちを招かれます。「悲しみの人」にどのようにならうことができるでしょう。そのきっかけとしていくつかの記事をご紹介します。
能登半島地震、阪神淡路大震災を覚えて 2025
祈りやご支援、その他様々な形を通してワンチームでこの働きを担ってくださったお一人一人を通し、25年間、一日も欠かすことなく聖書からの慰めと励ましを届けさせてくださった主を、共に心から感謝いたします。
あの日、みことばを通して 日本語版「デイリーブレッド」創刊25周年特設サイト 2025
祈りやご支援、その他様々な形を通してワンチームでこの働きを担ってくださったお一人一人を通し、25年間、一日も欠かすことなく聖書からの慰めと励ましを届けさせてくださった主を、共に心から感謝いたします。

愛って何?
未就学児に「愛って何だと思う?」と尋ねたところ、幼い子もいろいろと考えているのだということが分かりました。
「愛は、みんな家族といるってこと」と4 歳のアダムくん。
「ばあばがリウマチっていう病気で体が痛くて、足の爪が切れなくなったんだ。それで、じいじが爪を切ってあげるんだけどね、本当はじいじも手が痛いんだよ」と言った子もいました。
このおじいさんの話から、聖書の一節が思い浮かびました。イエスは、まもなく捕らえられて十字架にかけられると予期し、残されたわずかな時間を使って弟子たちに模範を示されました。手ぬぐいを腰に巻き、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められたのです(ヨハネ13 章)。ペトロは、主であるお方がかがんで自分の汚い足に触れることをためらい、辞退しようとしました。しかしイエスは、人に仕えることを教えるため、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃいました(14 節)。
イエスは、ついてきた人々に3 年間尽くして教え、その後、人類の罪のために命をささげられました。イエスが示された謙遜と犠牲こそ、愛の本質です。
犠牲をいとわず愛する姿勢を、私たちはどのように身に付けるのでしょう。まず神に祈って尋ねてみてください。神はあなたの造り主で、独自の人生経験をさせ、スキル等を与えて、人の役に立てさせてくださるお方だからです。
助けの必要な人はたくさんいます。世の中のニーズに目を向けてください。誰かの家事や仕事を手伝ったり、子ども食堂や炊き出しのボランティアをするのもよいでしょう。誰かの話を親身に聞く、または、あまり気の合わない人でも困っているなら祈ったり手助けしたりすることができます。
今日、どうやってイエスのように人を愛しますか。誰の足を洗いますか。
今月は、犠牲をいとわず愛することについて考えました。
【このテーマは今月の以下のエッセーでも取り上げています。】
1日 主にある慈しみの勝利
8日 互いを思いやる
15日 神と共に行く
22日 主の愛で愛す
主にある慈しみの勝利
近代メジャーリーグ初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンは、1947年5月9日、フィラデルフィアのシャイブパークで行われた試合に出場し、10歳の少女ドリスは父親と2階スタンドで観戦しました。ドリスの父親は、高齢の黒人男性が隣の席に座ると、笑顔であいさつしました。試合について語る二人のそばで、ドリスは大人になった気分でした。「あの人の笑顔は忘れられない」と語ります。そこには、白人少女ドリスと奴隷の息子だった黒人男性が語り合うほほ笑ましい光景がありました。