ボロボロの靴と「助けてください」と書いた段ボールに目を留めたジョギング中の年配の男性は、サイズが同じと判断すると、自分のスニーカーと靴下を脱いで彼に手渡し、裸足で帰路につきました。また、こう説明することも忘れませんでした。「私は、今まで神に祝福されました。ですから、あなたを祝福すべきだと思ったのです」
この男性は、神から祝福されたので、誰かを祝福したいと言いました。イエスを信じる人も、そのように「慈愛……を身に着けなさい」(コロ3:12)と教えられています。実際、キリスト者は「主イエスの名によって」(17節)善い行いをします。(そう相手に説明しても、しなくても)。私たちは、親切の実践だけでなく、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(12節)を身に着けなさいと教えられました。御霊の実(ガラ5:22-23)は、内住の聖霊のおかげで、私たちの内に育まれます。この実は、私たちが神の愛を受けているという証明であり、神の愛は、私たちを管として外に向かって流れ出ることで明らかになります。神の愛は、上記の美徳を統合し「すべてを完成させるきずなです」(コロ3:14)
前述の男性のように、人に親切にするチャンスを逃がさないようにしたいものです。また、イエスがその理由だと、暗にでも示したいものです(17節)。
他人の親切からどんな恩恵を受け、その経験があなたをどう変えましたか。今日、あなたは、どんな親切をしようと思いますか。
イエスの御名によって、あなたはどんな親切をしますか。
誰かを心から歓迎する
言葉で元気づける
己を顧みず気前よくする

