ステップ2-3:一般的な原則を見つける
聖句の背後にある一般的な原則を見いだすために、適切な問いを立て、それに対する答えを探しましょう。ここでは大切な三つの指針を紹介します。ある聖句が直接今日に当てはまらない場合、これらの指針はより一層重要になります。
◆指針1:著者自身の言葉を精読する。
■■□著者自身が一般的な原則に言及していないか? □■■
先ほどのコリント人への手紙第一8章の場合、この初歩的で最も簡単な方法で、より一般的な原則を見いだせました。著者自身がより大きな原則に言及していないか探すというシンプルな方法です。先ほどのパウロの場合は9節でした。たいていの場合、新約聖書の著者たちはまず一般的な原則を述べ、その後、具体的な状況への対処法をいくつか例示します。そのすべてがそのまま今日の私たちに当てはまるわけではありませんが、背後にある一般的な原則はほとんどの場合、私たちにとっても有効な指針です。そこに神の御性質が現されているからです。
◆指針2:ある規定や教えが与えられた理由を探る。
■■□この具体的な規定はどのような状況でなぜ与えられたのか? □■■
著者が一般的な原則を述べているかどうかにかかわらず、多くの場合、規定そのものとそれが与えられた理由を精読すれば、より包括的な原則が見いだせます。聖書の教えは無秩序ではなく、ピラミッド構造になっています。どの規定も上位の教えを具体的に適用したものです。その教えが与えられた理由を理解すれば一つ上の階、あるいはもっと上の階から今日に当てはまる原則を見いだせます。
◆指針3:前後だけでなく、より大きな文脈を確認する
■■□より大きな文脈を確認することで、一般的な原則が見いだせないだろうか? □■■
一般的な原則を見つけるために大切なのは、直近の文脈だけではありません。より大きな文脈を確認するのも重要です。例えば、コリント人への手紙第一8章からパウロの意図していた一般的な原則を見いだすのは簡単でしたが、それは直近の文脈で言及されていたからです(9節)。しかし、時にはその聖句の前後数段落、あるいは数章を確認する必要があります。他の書物を参考にしなければならないことも少なくありません。最終的には聖書全体がすべての聖句の文脈であり、理解の指針です。
みことばから一般的な原則を見いだすのは、根拠聖句を探すことではありません。聖書の真理を簡潔で小ぎれいな定理にまとめる試みでもありません。そうではなくて、具体的な戒めや模範、約束の向こうにある神のみこころと思いを追求するのです。神が何を語られたかは極めて重要ですが、それと合わせてなぜそう語られたかを理解したいのです。私たちが切に望むのは、神の考え方、すなわち、聖書全体を貫く壮大なテーマを具現化する世界観を育むことです。
みことばの大きな原則を探し求める中で、それぞれの節、段落、章、そして各書物に脈打つ神の鼓動を感じ取りましょう。聖霊が助けてくださるので、私たちは妥協せずに「神のみこころを見分ける」(ローマ12:2)という目標を追い求めるのです。
ステップ2-2:聖書の教えのピラミッド

聖書の教えはピラミッドのような階層構造があります。「神、そして隣人を愛せよ」というニつの戒めが頂点で、教えや規定はすべて頂点と底辺の間のどこかに位置します。
頂点に近い規定ほど普遍的で抽象的なので、その数は多くありません。一方、ピラミッドの底辺に近い、例えば「牛に口籠(くつこ)をはめてはならない」(申命記25:4、Ⅰテモテ5:18)のような規定はたくさんあります。特定の状況のための具体的かつ詳細なものだからです。
底辺に近い種々の具体的な教えは私たちには無関係、あるいは不可解に思えることもあります。しかし上の階に目を向ければ、その背後にある共通原則や理由が分かります。逆に、頂点に近い規定は往々にして漠然としていて抽象的に感じられるので、下の階でどのように具体化されているかを確認しなければいけません。
実際の聖句でこのピラミッドを確認してみましょう。
■■□偶像に献げた肉についてのパウロの教え□■■
コリント人への手紙第一8章でパウロは偶像に献げた肉について教えています。現代では、この教えを身近に感じるという人はあまり多くないかもしれません。しかし丁寧に読めば、食べ物についてのこの規定はピラミッドの最底辺に位置するものだと分かります。その上にはニつの教えがあり、どちらも現代を生きる私たちに直接関係します。
この偶像に献げた肉について、具体的な教えの上の階に目を向けて、現代の私たちにも関係する一般的な原則を探してみましょう。まずはこの手紙のもともとの読者たちが直面していた問題を知り、それに対してこの箇所が何を語っているかを理解する必要があります。偶像に献げた肉の何が問題だったのでしょう。コリントの人々は何に困惑していたのでしょう。スタディバイブルの解説や聖書ハンドブックなどの助けを借りて、文化の隔たりを越えましょう。
市場で肉を買う、あるいは友人たちと夕食をともにするといった日常的な行動も問題をはらんでいた。肉屋の中には、異教の神殿儀式のために殺された動物や、偶像に献げて余った肉を仕入れて販売する者がいた。コリントのクリスチャンたちはそのような肉を買ってもよいか、また目の前に出されたときに食べてもよいか、確信がなかった。※1
パウロは、コリントの人々がこの問題をクリスチャンの視点から捉え直せるように助けます。まず彼は、偶像に献げられた肉を食べてもよいかなど気にしないと述べ、ニつの理由を挙げています。一つ目は、この世界に神はまことの神お一人しかおられないと知っているからです。「『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っています。というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけ」だからです(Ⅰコリント8:4-6)。 ニつ目の理由は、食物が神と私たちとの関係を左右するわけではないと知っているからです。「私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません」(8節)
しかし同時に「すべての人にこの知識があるわけではない」(7節参照)ということも、パウロには分かっています。生まれてからずっと当たり前のように偶像礼拝と関わってきて、つい最近クリスチャンになったばかりの人たちは、パウロや信仰の強い教会の仲間たちが偶像に献げられた物を食べているのを見たらどう思うでしょう。「イエスを信じる歩みと偶像との関わりは両立できるのだ」と誤解するかもしれません。あるいはパウロたちの行動と信仰を理解できず困惑や疑いを覚えたまま、彼らの行動をただ真似するようになるかも知れません。
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知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(10-12節)
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そんなリスクを冒すぐらいならと、パウロは次のように結論します。「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して(偶像に献げた)肉を食べません」(13節)
「偶像に献げた肉は食べない」という結論を私たちがただ真似る以上に重要なのは、パウロがそう結論するに至った理由を理解することです。8-9節でパウロは、問題の本質は偶像に献げた肉ではなく「あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように」することだと述べます。つまり、ここには食べ物よりも重要な原則があります。それは、他のクリスチャンが良心に反して罪を犯すきっかけを作ってはならないということです。罪はその人を傷つけ、滅ぼします(7、10節)。パウロの願いはむしろ、私たちがその人を愛のうちに育てることです(1節)。この原則は現代のさまざまな状況や実践に当てはまります。
ここまでで、偶像に献げた肉という当時の具体的な問題についての教えから、一般的な原則が見いだせることを示しました。それは「自分の自由をきっかけに他者が罪に陥ることがあってはならない」という原則です。「偶像に献げた肉は食べない」という単なる決まり事のようなみことばから、私たちが真剣に考慮すべき大切な指針を見つけました。さらにそれに加え、パウロはあの最も重要なニつの戒めの一つにも言及しています。それは「愛によって兄弟姉妹を育てる」(1節参照)ということです。こうして、この箇所でコリントの人々に求める実践の中に3層のピラミッドを見いだすことができました。
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3階(最も一般的):コリントの人々は、愛のうちに他の兄弟姉妹を育てるような行動のみを取るべきである。
2階(より一般的):コリントの人々は、食べ物に限らずすべての面で、自らの自由を制限してでも兄弟姉妹がつまずくきっかけを与えてはならない。
1階(最も具体的):コリントの人々は、良心が弱い兄弟姉妹の適切な模範にならないなら、偶像に献げた肉を食べてはならない。

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あらゆる聖句はいくつかの階層を持つ大きなピラミッドの一部分です。それが分かれば、みことばに基づいて歩むとはどういうことかが理解しやすくなります。もしある聖句が当時の特定の状況に基づくもので私たちに直接当てはまらないなら、一つ上の階に目を向けましょう。そこでより一般的な原則を見いだし、実践しましょう。
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※1 J. A. Thompson, Handbook of Life in Bible Times (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1986).
ステップ2-1:一番重要な戒め
聖書にある各々の具体的な教えから、その背後にあるより大きな原則を見いだすという考え方は、決して新しいものではありません。イエスご自身がそのことを教えてくださいました。
ある時、律法の専門家がイエスのもとに来て、その聖書知識を試そうとしました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか」。これは当時、最も議論されていた問題についてイエスの見解を尋ねるものでした。
イエスは彼に答えられました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」(マタイ22:36-40 強調は筆者による)
つまり、このニつの戒めは残りの戒めをまとめたものです。イエスによれば、これらニつの戒めが聖書のあらゆる律法や規定、命令の背後にある意図と精神を捉え、イザヤ、エゼキエル、エレミヤなど預言者たちのメッセージを説き明かします。このニつの戒めは普遍的で、いろいろな状況下に当てはまりました。事実、あらゆる状況で意義を持ち、実践できるものです。これらの戒めは神が各々の律法を与えられた理由、そしてその最終的な目標を示しています。
では、その他たくさんの戒めはなぜ必要なのでしょう。聖書はもともと、さまざまな状況に置かれた多様な人々に宛てて書かれました。戒めの多くは彼らがそれぞれの日常生活の各場面で神と隣人への愛を実践する具体例です。例えば、ビジネスの中で隣人を愛するとはどういうことでしょう。「あなたがたは、さばきにおいて不正をしてはならない。物差しにおいても、秤においても、分量においても」(レビ記19:35)。困窮し食べるにも事欠く人々への愛はどのように実践されるでしょう。「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。……それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない」(レビ記19:9-10)
ある意味、聖書に書かれた各々の具体的な規則からより大きな原則を見つけるのは簡単です。私たちはどんな戒めも、その状況によらず、神と隣人への愛の表現だと知っているからです。創世記から黙示録まで聖書が一貫して強調するのは、キリストに従うとは神と隣人との関係に自らを献げ切ることだということです。神はイエス・キリストの姿を通し、私たちがご自身、そして隣人とともにどのように生きるべきかを示されました(ピリピ2:5-11)。
それでも、聖書の原則がこれだけだとしたら、さぞ退屈でしょう。あらゆる説教、信仰書、バイブルスタディがただただ「愛しましょう」としか言っていないとしたら! ありがたいことに、そういう心配は無用です。聖書の主題は子どもでも理解できるほど単純ですが、同時にそこには私たちの想像をはるかに超える豊かさと味わい深さが存在します。
ステップ2:より大きな原則を探す

ある家庭では食前のお祈りは当番制でしたが、一番下の子の番のときは家族みんながげんなりしていました。
というのも細々と一つずつ、延々と感謝が続くからです。それを黙って聞いているのはまるで終わりのない苦行です。自分のお皿から始まって、1人分ずつ順番に回っていきます。「天のお父さん、僕の卵をありがとうございます。それからお母さんの卵と、お父さんの卵と、お兄ちゃんの卵と、お姉ちゃんの卵をありがとうございます。僕のトーストをありがとうございます。お母さんのトーストとお父さんのトースト、あとお兄ちゃんのトーストとお姉ちゃんのトーストもありがとうございます……」。この長い長いお祈りは、とにかくテーブル上の物を言い尽くすまで終わりません。「お塩をありがとうございます。こしょうをありがとうございます。バターと、それからジャムもありがとうございます。イエスさまのお名前でお祈りします、アーメン」。みんなはやっと安堵のため息をつき、冷めた食事を頂くのです。
ところがある朝、彼の祈りがみんなを驚かせました。その日も、みんなため息交じりに手を組み、頭を垂れていました。今から5分、いや10分後には焼きたての目玉焼きもトーストも冷め、冷蔵庫から出したオレンジジュースは温まり、コーヒーはぬるくなる……。誰もがそう思っていました。いつも通り「天のお父さん」と彼の祈りが始まりました。でもその後がびっくりでした。「この食事をありがとうございます。イエスさまのお名前でお祈りします、アーメン」。彼は一般化、つまり「いくつかの物事(目玉焼き、トースト、塩、こしょう、バター、ジャム……)に共通する特徴を見つけて一つ(食事)にまとめる」ことを学んだのです。
聖書は確かに、特定の状況に置かれた特定の人々に書かれたものですが、そのメッセージはあらゆる時代の、すべての人々のためのものです。イエスの時代から今日まで、イエスに従う者なら例外なく、神の恵みと愛、そしてイエス・キリストの救いにふさわしい生き方を学ばなければなりません。ご自身さえ与えてくださった神への感謝をどのように表せばよいでしょう。日常生活のささいな一コマでどのように神、そして隣人への愛を示せるでしょう。幸いなことに聖書には私たちが神の子として、神とともに歩む指針が示されています。ただ、その中にはあまりにも当時の状況に依存していて、現代の多くの読者には無関係としか思えないものもあります。
一般化を学ぶのは、みことばに基づいて生きるために最も大切なステップの一つです。あるみことばが現代を生きる私たちにはほとんど当てはまらないと思えても、見た目だけで判断せず、背後の大きな原則を探さなければなりません。

外国籍の人々を守る
国際都市ロンドンは、多国籍の人々が隣り合って暮らす街です。各国のグルメが楽しめますが、社会的な問題もあります。例えば、ある友人は、EUに遅れて加盟した国の出身者ですが、自分たちは偏見にさらされていると言いました。諸問題の原因を作ったと言われ、元々いた人から職を奪っていると恨まれていると。

中傷される
強風にあおられて火は燃え広がり、何日も燃え続けました。歴史家タキトゥスは、市民が我が身を守ろうと悲鳴を上げて逃げ惑う、混沌(こんとん)としたローマの様子を記録しています。結局、ローマ市の3分の2近くが焼失しました。皇帝ネロは、キリスト教徒が放火したとうそをつきました。キリスト者を憎んでいたので、災禍の責任をなすりつけようとしたのです。この火災はネロの命令によるものだという噂を払拭するためだったのかもしれません。
