Month: 1月 2026

主に真摯に従う勇気

紀元155年、迫害が激化する中、司教ポリュカルポスは逮捕されました。信仰を捨てれば命は助かると説得されると、次のように答えました。「私は86年間主に仕えてきましたが主は私に何の悪事もなされませんでした。どうして今私を救ってくださった王を冒涜(ぼうとく)することができるでしょうか」。そして火刑になりました。彼の姿勢は、信仰の厳しい試練に直面した時、私たちを励ましてくれます。

ステップ1-3:バック・トゥ・ザ・フューチャー&実際に取り組もう

■■□バック・トゥ・ザ・フューチャー□■■

 それでは、再びタイムマシンに乗り込み、21世紀に戻りましょう。聖書の世界から私たちの世界へと帰るために、もう一度、時間、文化、言語、そして地理的な隔たりを越えなければなりません。 

 これこそ広い意味での「聖書の適用」です。聖書時代のエルサレムやエペソ、コリントで学んだことを、現代のシカゴやロンドン、東京での生活に当てはめましょう。もともとはギリシャ語やヘブル語、アラム語で語られたメッセージを分かりやすい日本語にします。異なる時代や文化の中で現代とは似て非なる問題について語られた真理を、私たちの状況に当てはめるのです。 

 各箇所の状況や文脈を踏まえ、倍率を段階的に上げてみことばを学ぶ方法を紹介しましたが、タイムトラベルの「復路」で重要なのはその逆です。今度は聖書に書かれた細かな命令や規則の背後にある大きな原則を見つける必要があります。 

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■■□際に聖書に取り組んでみる□■■ 

 

  1. ヨハネの手紙第一の全体を読んで「最初の読者たちの置かれた状況やこの手紙の執筆理由についての明確な言及、そして間接的なヒント」を探してみましょう。その後、聖書ハンドブックやスタディバイブルの緒論(各書物の概要説明)を参考にしながら自分の考えと比較してみましょう。
  2.  アモス書13-216節に出てくる町や国を聖書地図帳で確認してみましょう。また聖書辞典などでそれぞれの町や国について調べてみましょう。 
  3.  聖書の書物はそれぞれどのようなジャンルの文学で書かれているでしょうか。聖書ハンドブックやスタディバイブルなどで調べてみましょう。
  4.  ヨハネの手紙第一、あるいはアモス書の全体を読んで、頻出する単語や概念を書き出してみましょう。そこからそれぞれの書物の主題について自分の言葉でまとめてみましょう。 

 

ステップ1-2:注意深く読む

 タイムマシンで時間、言語、文化、そして地理的な隔たりを完全に乗り越えたとしましょう。あなたは今、1世紀のコリントの町にいます。ギリシャ風の服をまとい、流ちょうなギリシャ語を話し、文化や地理もよく分かっています。またすでにコリントの教会によく顔を出しており、教会の人々のことも、そこで問題になっていることもよく知っています。 

 礼拝のために近くの家に集まると、使者がやって来ます。手にはパウロからの手紙が握られています。後に「コリント人への手紙第一」と呼ばれるものです。受け取ったあなたはその巻物を開き、読み始めます。(もちろんギリシャ語で!)時間、言語、文化、地理の隔たりを越えたあなたなら、パウロがコリントの人々へ伝えたかったメッセージを難なく理解できるでしょうか。必ずしもそうではありません。 

 同時代を生きた使徒ペテロでさえ、パウロの手紙には「理解しにくいところがあります」と述べています(ペテロ3:16)。もちろんペテロが「理解しにくい」と言ったのは、所々意味をつかみにくい部分があったからでしょう。しかし、たとえ文章が明快だとしても、私たちがパウロや他の著者たちの意図を理解できるかどうかは私たちの読解力にかかっています。ですから聖書の学びを深めるには、読解力を育むことが不可欠です。ここで言う「読解力」とは、聖書だけでなく小説や雑誌などあらゆる文章を読む際に用いる一般的なものです。 

 「著者がもともとの読者に伝えようとしたことは何か」。この基本的な問いに答えることが、読解の最初の目標です。(「その箇所は今日の私たちに何を教えているか」という問いは後で取りあげます。) 

 次の五つの指針に従い、著者のメッセージを読み取りましょう。 

◆1. その書物がどのようなジャンルの文学かを確認する

 ある晩、教会でカルト問題の専門家が講演会を開きましたが、カルトグループのメンバー数人がそれを聞きつけてやって来ました。会合の真っ最中、その1人が立ち上がり「父なる神は私たちのような物理的な身体を持っている」と論じ始めました。そして自らの主張を「証明」しようと、神の「御腕」「御手」「御目」などの表現が用いられた聖句を引用したのです。そこで講師は彼に詩篇178節を朗読させました。「御翼の陰にかくまってください」 

 「でもこれは単なる言葉のあやじゃないですか!」と反論する彼に向かって、講師は「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」と応じました。 

 聖書の記者たちは物語、手紙、詩、格言集、え話、などさまざまなジャンルの文学を用いました。比喩や象徴を多く含む預言書や黙示録もあります。各ジャンルには異なる特徴があります。詩を新聞記事のように読むのが的外れなように、著者が用いているジャンルを特定し、それに沿って読み解かなければ、その意図を正しく捉えることはできません。詩的表現や比喩を用いて書かれているのに「著者は字義通りのことを伝えようとしている」と仮定しても、的外れな結論に至るだけです。 

◆2. 書物全体の大きな文脈を確認する 

 「文脈」というのは直前の段落や前後の章だけではありません。ある聖句にとって、それが含まれる書物全体も大切な文脈です。大きな文脈をつかむことは読解にとってニつの点で有益です。まず、頻出する単語や概念に注目することで、その書物に一貫する主題を知ることができます。また、先に全体の論旨を把握することで、各部分がその主題にどう関わるのかがよく分かるようになります。 

 これは望遠鏡で遠くの景色を見るようなものです。まずは低倍率で全体を見渡しましょう。頻出する単語や概念を探しながら全体をざっくりと読みます。全体を読めないときは、スタディバイブルやハンドブックで概観を把握したり、インターネット上の信頼できる動画や資料などを参考にするのも一案です。 

 次に少し倍率を上げ、書物全体をいくつかに分けて見ていきます。それぞれの部分に主要テーマが一つずつあるはずです。それを見つけたら、自分の言葉で小見出しとして簡潔にまとめましょう。これでようやく、細部をじっくりと観察する準備が整います。段落、文、そして単語へと、倍率を上げていきましょう。 

◆3. 少しずつ学ぶ

書物全体の主題と構造を把握したら、ひとまとまりずつ学んでいきましょう。ここでいう「まとまり」とは、今日の聖書の一つの段落、いくつかの段落の集合、あるいは章に当たります。ただし覚えておきたいのは、聖書にはもともと章も、段落も、節の区切りもなかったということです。句読点すらありませんでした。 後から追加された区切りは便利ですが、それにこだわる必要はありません。 

◆4. 書物全体や各部分の感情に注意する

聖書は単に思想や概念を集めたものではありません。著者や登場人物は、私たちと同じように感情や心を持っていました。ゲツセマネの場面を読むと、イエスの経験された悲しみやうめきが迫ってきます。ガラテヤ人への手紙からは、ユダヤ主義者に対するパウロの憤慨が見て取れると同時に、兄弟姉妹たちが彼らになびいていることへの当惑もひしひしと伝わります。一方、詩篇148篇からは抑えきれない賛美の情熱を感じられるでしょう。このように、聖書の学びには主観的な側面もあります。著者や登場人物の感情や動機について洞察を深めると、彼らが伝えようとしたことをより深く理解できます。 

◆5. 自分の理解を注解書などと照らし合わせる

その箇所の主要テーマや著者の意図を理解したと思ったら、信頼できる注解書やスタディバイブルなどを12冊開いて、自分の理解と比較してみましょう。さらなる気付きが得られるかもしれません。自分の誤読に気付き、訂正する機会でもあります。しかし、まずは自分自身で一生懸命みことばに取り組むことが肝心、注解書に頼るのはあくまでその後です。 

ステップ1-1:タイムトラベル

 聖書を学び、生活の中で実践するというのはタイムマシンに乗るようなものです。時間、言語、文化、そして地理的な隔たりを越えなければ、聖書の世界の人々について正しく理解できません。まず彼らが置かれた状況で、彼らがどのようにみことばを受け取め、いかに行動したかを知る必要があります。この章ではその方法をお伝えします。 

 当時の人々が神のみことばをどう受け止め、どのように応答したかが分かったら、再びタイムマシンに乗り込み21世紀に戻りましょう。現代社会で神とともに生きようとするとき、私たちは聖書が直接述べていない課題にも直面します。そのような課題に対し、みことばが語ることをどのように聞き取り、その知恵をどのように実践するのか。これは後の章でご説明します。 

 私たちのタイムマシンにはさまざまな「装置」が搭載されています。どれも今日、聖書を真摯(しんし)に学ぼうとするなら誰でも使えるものばかりです。これらの装置で、聖書の世界と私たちとの間にある数々の隔たりを越えていきましょう。

■■□時間の隔たりを越える□■■

 現代の私たちが何千年も前に起こった聖書の出来事を理解しようとすると、明らかな問題があります。私たちはその場にいなかったので、前後に何があったのか、当時何が問題になっていたのか、また時代的な背景など重要な情報をほとんど持っていません。つまり、歴史的文脈に不案内なのです。 

 新約聖書の手紙のほとんどは、具体的な問題への対処として書かれました。イエスを通して神との新しい関係に入った人たちは、それぞれ課題を抱えていました。ガラテヤの人々は律法によって義を追い求めていましたし、コリントの人々は結婚、霊の賜物、そして偶像に献げた肉について答えを求めていました。テモテは教会の秩序を回復する方法を学ぶ必要がありました。 

 背後にあるそのような問題や疑問を知らずに手紙を読むのは、誰かが電話しているのを脇で聞くようなものです。話している人が何を言っているかは分かりますがなぜそう言うのかが分かりません。詩篇や預言書も同様です。私たちは話の片方しか知らないのです。 

 例えば、ヨハネは最初の手紙の中でこのように書いています。 

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愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。(ヨハネ 4:1-3 

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 ここはしばしば霊の判別について述べていると誤読され、その結果、誤った実践がなされてきました。悪霊につかれていると思われる人がいたら「イエス・キリストは人となって来られたか」と尋ねるべきだというのです。悪霊につかれているならそれを否定するはず、しかし「その通りだ」と答えるなら、その可能性はないと判別できるというのです。 

 これは歴史的文脈を無視した解釈の典型例です。注意して読めば、ヨハネが述べているのは霊の判別方法ではなく、偽預言者と本当の預言者の見分け方だと分かります(1節)。そして、偽預言者としてヨハネが念頭に置いているのは、神なるキリストが正真正銘の人間となられたことを否定する者たちです。彼らは肉体や物質が悪だと信じていたのです。 

 そのような背景はどうすれば分かるのでしょう。歴史的文脈を把握するにはいくつか方法がありますが、どれもあらゆる聖句に応用可能です。まず、書物全体や聖句そのものから手がかりが得られます。ヨハネの手紙第一219節から、偽預言者たちがもともと教会の仲間だったということが分かります。「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです」。ヨハネは彼らを「反キリスト」と呼んでいます(18節)。彼らを警戒するようにと伝えることが、この手紙の執筆理由の一つでした。「私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました」(26節)。他にも、最初の読者たちの置かれた状況や手紙の執筆理由についての明確な言及、そして間接的なヒントがたくさんあります。 

 聖書の各書物や聖句の歴史的文脈を知るために、関連箇所を読むのも有益です。例えば詩篇51篇はバテ・シェバと姦淫(かんいん)した後にダビデが詠んだものです。サムエル記第二1112章にその詳細が書かれています。(詩篇51篇の場合は序文からその背景が分かりますが、本文にそのような情報がなくても、たいてい聖書欄外にある引照や聖書辞典、注解書に関連箇所が挙げられています。)同様に、ピリピ人への手紙を学ぶ際に使徒の働き16章を合わせて読むと、ピリピの教会が始まった経緯を知ることができます。 

 歴史的文脈への理解を深めることは、著者のメッセージを読み解くための大切な準備です。ばらばらのパズルのピースを見つけてはめ込んでいくように、全体像がどんどん明確になっていきます。 

■■□言語の隔たりを越える□■■

聖書ははじめから日本語で書かれていたわけではありません。もともとはヘブル語、アラム語、そしてギリシャ語でした。これは聖書のメッセージを理解する上で大きな障壁です。そのような聖書原語に習熟するのがいかに大変かは、実際に学んでみればすぐに分かります。幸いなことに、専門家たちが私たちの代わりにこの隔たりを乗り越え、現代日本語に翻訳してくれました。いまや多種多様な翻訳聖書が手に入ります。

 どの翻訳にも長所と短所があります。形式的等価と呼ばれる翻訳方針は、ヘブル語やギリシャ語の各単語にできるだけ近い訳語を当てますが、そうすると日本語として不自然な部分が出てきます。 

 意訳聖書は単語ごとの厳密さより訳文の明快さを重視します。確かに読みやすいのですが、あたかも聖書がつい数年前に書かれたかのような印象を与えてしまいます。例えばリビングバイブル(1978年版)では詩篇119105節の「ともしび」という言葉を「懐中電燈」としています。 

 細心の注意を払って学ぶために、いろいろな翻訳聖書の利点をフル活用しましょう。どの訳からも、著者が原語で表現しようとしたことをくみ取ることができます。 

 

■■□文化の隔たりを越える□■■ 

聖書の出来事の背景には多くの異なる文化があります。エジプトやカナンの文化、他にもバビロン、ユダヤ、ギリシャやローマの文化……。挙げればきりがありません。ですから、21世紀の文化を生きる私たちには一見理解しがたい慣習や信念が書かれていても当然です。 

 ラケルが父から盗んだテラフィムとはどのようなもので、彼女はなぜそれを盗んだのでしょう(創世記31:19)。ヨナがニネベの人々を恐れたのはどうしてでしょう。サマリヤ人とはどんな人たちで、どうしてユダヤ人とあんなに敵対していたのでしょう(ヨハネ4:9)。コリントに住むクリスチャンたちが特殊な誘惑に直面していたのはなぜでしょう。そこにコリントという都市の影響がどの程度あったのでしょう。そのような文化的背景を理解すると、新しい気付きが得られます。聖書の登場人物それぞれの行動、恐れ、敵対心、誘惑に対して神のみことばが何を語ったかが分かってきます。 

 例えばアモス書には次のような聖句があります。「まことに、イスラエルの背きのゆえに わたしが彼の上に報いる日に……その祭壇の角は折られ、地に落ちる」(アモス3:14)。一見、21世紀の私たちには意味が通じません。しかし聖書辞典を使えば、私たちもアモスのメッセージを理解することができます。 

 「祭壇」や「角」の項目を見ると、神殿の祭壇は四隅に角状の突起が付いていたことが分かります。この角に犠牲の動物の血を塗っていました。旧約聖書の時代、多くのユダヤ人にとって、祭壇は命乞いの場所とされていたようです。(訳注) 

 身の危険が迫っている人は神殿に来て、祭壇の角をつかんだのです。この文化的背景を理解すれば、アモスのメッセージがかります。つまり彼はイスラエル人にこう警告しているのです。「あなたが祭壇に身を避けようとしても、その角、すなわちあなたの守りがすでに折られているのを見るだけだ」と。 

 古代中東文化にどっぷりつからなければ、聖書の学びは不可能です。それに精通すればするほど、聖書の世界と現代との文化的な隔たりを上手に越えることができます。 

■■□地理的な隔たりを乗り越える□■■

聖地旅行をした人は「聖書がこれまでになくリアルに感じるようになった」と語ります。しかし実際に聖地旅行をしたことがなくても「疑似体験」が可能です。聖書の地理が頭に入ると、多くの聖句が新しい意味を帯びてきます。 

 例えばアモス書13-216節では、預言者アモスがダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アンモン、モアブ、ユダ、そしてイスラエルを非難します。一見、アモスはこれらの町や国を手当たり次第に並べているだけに思えます。しかしよく調べれば、この順番の背後にある巧妙な意図が分かります。最初の三つはイスラエルと血縁関係のない国の首都です。次の三つはイスラエルにとって遠縁にあたる国。7番目のユダはイスラエルの南に隣接する、いわば兄弟国。そして最後に言及されるのがイスラエル自身です。 

 これはアモスの聴衆に大きなショックを与えたはずです。 

 イスラエル人たちは最初、アモスが異邦の国々に裁きを宣告するのを聞いて拍手喝采だったでしょう。しかしその矛先がだんだん近づいてきます。アンモン、モアブ、ユダ……。じわじわと冷や汗が出てきます。とうとう「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない」(2:6)と、ここに至って、アモスの糾弾が聴衆たち自身に及ぶのです。 

 聖書の地理に精通するにはいくつかの方法があります。あなたの聖書に地図が付いているならぜひ活用しましょう。また良い聖書地図帳や聖書辞典があれば、あまり聞きなじみのない地名であっても有益な情報が得られるでしょう。 

ステップ1:もともとの文脈を理解する

 名作映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公は1980年代を生きる男子高校生です。彼は図らずもスポーツカーを改造したタイムマシンで50年代にタイムスリップしてしまいました。同じ町なのに、様子が全然違います。女の子たちはポニーテールにウェストをきゅっと絞ったフレアスカート姿、男の子たちは髪をポマードでテカテカになでつけて、みんなエルビス・プレスリーみたいな格好です。ガソリンスタンドに入ってくるのはピカピカの「クラシックカー」。作業服姿の従業員が何人も駆け寄り、それぞれ給油したり、窓を拭いたり、ボンネットを開けてオイルを確認したり。ガソリンの値段は1リットル約20円、コーラも1本約20円です。この映画を見ると当時の生活が滑稽に見えると同時に、時代が移り変わる速さに驚かされます。 

 しかし、変わってしまったことばかりではありません。当時も今も高校生として生きるのは楽ではありません。現代の高校生にも学校、授業、宿題、人間関係があります。友情や初恋の経験もするでしょう。ラジオがスマホに変わってもみんな音楽は大好き。気になる相手がいればもじもじしたりわざとからかったりしてしまうし、コーラも飲むでしょう。さすがにもう20円では買えませんが。当時と今、そんなに違わないかもしれません。 

 聖書を読むときにも似たような感覚があります。そこに書かれているのは奇妙で聞き慣れないことばかり。人々はラクダに乗り、テントに住んでいます。動物をいけにえとして献げ、豚を「汚れたもの」だと思っています。礼拝をするのは土曜日で、日曜日から働きます。不妊の妻は、夫に女奴隷との結婚を許します。私たちにとっては全くの異世界です。 

 もちろん、共通点もたくさんあります。聖書の人々にも誘惑があり、神を信頼して生きるのは決して簡単ではありませんでした。現代を生きる私たちと同様です。約4000年前に生きたヨブの苦悩に共感できるのは、私たちの苦悩と共通するものがあるからです。夫が妻を愛する義務、そして子どもたちが両親に従う必要は聖書時代も現代も変わりません。 

 あたかも聖書記者たちが私たちに直接語り、励まし、慰め、希望を与えてくれているかのように感じることも少なくありません。聖書が何度も繰り返し語るのは、神がいかに忍耐強く、慈しみ深く、ご自分の民に心を砕いておられるかということです。また聖書全体を通し、神はご自身、そしてご自分の民同士の愛の関係に彼らを招き続けておられます。 

 「違和感はあるけど共感できる」、聖書を読んで、あるいは1950年代が舞台の映画を見てそう感じるのは、歴史的な隔たりのせいです。聖書の人々と私たちの間にはたくさんの共通点がありますが、同時に約2000年から4000年もの時間的な隔たりがあります。彼らは私たちと異なる時代、場所、文化に生き、異なる言語を話していたのです。 

 聖書を理解して私たちの人生の指針とするために、この歴史的かつ文化的な隔たりは無視できません。 

まえがき・はじめに

■■□まえがき□■■

 「分からない」聖書箇所が出てくると「やっぱり自分は牧師ではないから、専門家ではないから」と諦めたくなりますか。本書のタイムトラベルの方法をぜひ試してみてください。巻末にまとめたさまざまな資料を活用しながら、神と一緒に聖書の世界を旅する楽しさを体験してみてください。これを専門家だけのものにしておくのはあまりにもったいないですから。 

 「聖書学校などで学んだことのない自分が聖書を読むと、間違った解釈をしてしまうんじゃないか」と心配ですか。しかし聖書そのものの中に安全装置が組み込まれています。それが「文脈」です。その箇所の前後の文章だけではありません。本書で詳述しているとおり各書物全体の流れ、あるいは書物同士のつながり、当時の歴史的・文化的背景などさまざまな文脈を把握することで聖書著者の意図を正しく理解し、私たちの日常生活で実践することができます。 

 聖書は神があなたと出会ってくださる、デートの場です。みことばを受け取り、味わい、自らと照らし合わせ、実際に生き方をもって主に応えていくなら、神はあなたの性別や学歴、立場にかかわらずご自身を表し、語りかけ、触れてくださいます。そのように神に出会い続ける人は、イエスの似姿へと変えられ続けていきます。あなたもその素晴らしさを体験し続けることができますように。 

 なお翻訳にあたり、日本語読者のために一部補足を加えたことをお断りいたします。 

デイリーブレッド社 

日本語編集部

 

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■■□はじめに□■■

 アルバート・アインシュタインといえば、舌を出した写真と「相対性理論」を思い浮かべる人が多いでしょう。 

 しかし、彼が亡くなるまで30年間ある理論を追求し続けたものの、ついぞ見いだせなかったという事実はあまり知られていません。アインシュタインは自然界の主要な力すべてを統一された枠組みで説明する理論の存在を信じていました。 

 探求は今日も続いており、その未発見の理論は「統一場理論」あるいは「大統一理論」と呼ばれています。しかし、最も一般的な呼称は「万物の理論」、つまり「物理のすべてを説明する理論」です。 

 アインシュタインとはほとんど共通点がないのですが、私もある大統一理論を追い求めていました。それは創世記から黙示録までの出来事とみことばの教えを網羅し、かつ子どもでも理解できるほどシンプルで美しい聖書の大統一理論、つまり聖書全体を貫くテーマです。 

 聖書の大統一理論は神のみこころや思いを明らかにします。また今から永遠に至るまで、神が何を最も大切にしておられるかも示すでしょう。さらに私たちが何のために創造され、何を目指して進んでいけばよいかも理解できるはずです。 

 ある晩、私の探求に大きな転機が訪れました。神学校の教授と夕食をともにした時です。私は、どうして出エジプト記に幕屋の建て方があんなに詳細に長々と書かれているのか、と尋ねてみました。「あぁ、簡単なことさ。神ご自身が来ようとしておられたんだ、ご自分の民とともに生きるためにね」。その一言が、聖書物語を最初から最後まで読み解くマスターキーでした。事実、聖書の最後の書物には使徒ヨハネが見た幻が記されていますが、そのクライマックスにはこう書かれています。 

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また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる」(黙示録21:1-5 

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 神が、ご自身を中心とした愛の共同体を建て上げるために私たちを創造してくださいました。愛である神は、私たちをご自身の似姿に創造してくださいました。その愛を、私たちが神ご自身、そして隣人と生きる中で余すところなく経験するためです。 

 創世記3章で人間が神に背いた結果、罪の激震によって、私たちに与えられた神の目的は砕かれてしまいました。罪は私たちと創造主との関係を引き裂き、そこにあるはずだった共同体や交わりを徹底的に破壊してしまいました。 

 しかし、神は初めのご計画をお諦めになりませんでした。聖書のどの書物、そこに記されたどんな物語にも、私たちをご自身のもとへ取り返そうといかなる犠牲もいとわない神の御姿があります。最終的に私たちと同じ人間となり、十字架上で命を捨てることで、神は私たちとの間にあった断絶を取り除いてくださいました。 

 聖書は単なる人生のマニュアルではありません。何よりもまず、神との関係についての書物です。聖書全体を貫くこの壮大なテーマが分かれば聖書の読み方は一変します。みことばの主題がルールではなくて愛だと分かれば、あなたをご自分のものとしてくださる創造主の鼓動が感じられるはずです。 

 この小冊子は聖書を理解し、それに基づいて生きるためのガイドブックです。しかし、読み進むとき、いつもこの聖書全体の大きなテーマから目をそらさないでください。それは北極星のようにあなたを目的地へと導くでしょう。 

 ジャック・クハチェック 

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*このプランは弊社公式サイトで公開している同タイトルの探求の書を再構成したものです。注釈、参考資料などはPDF版をご参照ください。

*聖書は特に記載のない場合は、聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会を引用

広い心を与えられた

アウグスティヌスは、宇宙を創造された神が、自分のような者と関わられるなどあるはずはと苦悩しました。罪にまみれた卑しく小さい自分などに。しかし、彼は必死に祈りました。「わたしの魂の家は、あなたが魂のもとへ入ってこられるためには狭いので、あなたのみ手でそれを広げてください。それは、荒れはてているので、それをつくり直してください。あなたの目ざわりになるものがある。わたしは告白し、知っている。しかし、だれがわたしの家を清めるであろうか。また、あなた以外のだれに向かって、わたしは叫ぶであろうか」(岩波文庫『聖アウグスティヌス告白上』)