米国の詩人ダニエル・ラディンスキー は、ある詩の中で、信頼に培われた人間関係とうそで傷ついた関係を対比して、「不誠実とは、なんと残酷な行為だろう」とつづりました。ドイツの神学者で修道士のエックハルトの教えに着想を得て、 真実で愛に満ちた言葉は「日々に混ぜこまれる素晴らしいスパイス」、うそは、「大惨事を心に起こす。その心はかつて愛した人を信じられなくなる……真実を語れない人によって、疫病が広がる」と述べています。

うそを疫病に例えるのは過激かもしれません。しかし、言葉を軽々しく扱わないという訓戒は、聖書の教えに共鳴します。聖書は常にそう語っています。使徒パウロは、新しくキリスト者となった人々に、救われる前と後の生き方の違いを説明しましたが、その中心は「真実を語る」ということでした。「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(コロ3:9–10)

うそや方便を正当化する理由は多々あります。時には、それが自分や大切な人の気持ちを思いやる最善の策だと思うこともあるでしょう。しかし、キリストに愛され、聖霊に心を動かされ、私たちは別の道を歩む選択をします。私たちは「憐(あわ)れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(12節)によって造り変えられ、愛と赦(ゆる)しによって、どのように信頼と平安を生み出すかを学びます。それによって、魂の安らぎが得られます(15節)。