ルネサンス時代の画家アルブレヒト・デューラーは、若き天才で、ラファエロなどの高名な芸術家でさえ、彼の芸術に畏敬の念を抱いていました。
評価の高い自画像は、自分の容貌を、長く波打つ髪、顎ひげ、神聖な使命を想起させる瞳など、想像上のイエスの姿と重ね合わせたものです。これを、彼のプライドの表れだと言う人々がいる一方、デューラーをよく知る人たちは、彼が、イエスに倣って生き、イエスが自分の中に見えるように、と尽力していたと語ります。
もし、私たちがキリストを本当に知っていると言うなら、デューラーの願いは、私たちの願いでもあります。イエスを神と信じ、イエスの死と復活を信じることが、神と自分のつながりの基盤であるとは、すなわち、人生は自分のためでなく、イエスのためにあることを意味します(ガラ2:19)。私たちはイエスのために生き、イエスは、私たちの内に生きて、私たちを通して働かれます。使徒パウロは、自分が信仰によって変えられたことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20節)と表現しています。キリストの麗しさや尊厳が、今日、私たちの普段の生活を通して輝きますように。そうすれば、世界はキリストを見るでしょう。
どんなときに、「私を通してイエスがご自分を表そうとされている」と感じますか。そのように認識することを避けている理由は何でしょう。