親切な行為
旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。 ルカ10:33
旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。 ルカ10:33
私たちは愛の少ない者です。なぜでしょう。親切にできない最大の理由のひとつは、相手の値踏みをするからです。私たちには「私の親切を受けるにふさわしい人とは、これこれしかじかの人」という固定観念があります。イエスに「では、私の隣人とはだれですか」と質問した人がいました(ルカ10:29)。つまり、「私の親切を受けるのにふさわしい人はだれですか」という質問です。イエスはその答えとして、たとえ話をなさいました。
それは、非常に危険だと悪名高い、エルサレムからエリコに続く道で起こった出来事です。旅人が強盗に襲われました。身ぐるみをはがれて殴られ、瀕死(ひんし)で置き去りにされました。そこに、信仰の人であるはずのユダヤ人(祭司とレビ人)が通りかかりましたが、この人たちは反対側を通り過ぎていきました。多分、宗教的に汚れることを恐れたのでしょう。しかし、サマリア人が通りかかり、見知らぬ人が苦しんでいるのを見て、純粋に気の毒だと思いました。
ユダヤ人はサマリア人を軽蔑(けいべつ)していたので、聴衆はイエスの話に息をのんだことでしょう。サマリア人は、この人にあわれみをかける必要はありませんでした。彼は自分たちを軽蔑しているユダヤ人だったからです。しかしこの人は、相手の値踏みをしませんでした。助けの必要な人だったので、手を差し伸べてあげたのです。
あなたは人を選んで親切にしていませんか。イエスに従う者ならば、みんなに親切にしましょう。特に、無視しがちな人たちに、隣人愛を実行する良い方法を見つけましょう。
寄稿者 Marvin Williams
さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
みことばを一語一句かみしめて受け取る
まるで自分自身がそこにいるかのように味わう
自分自身の内面や置かれている状況と照らし合わせる
頭で分かっておしまいにせず生き方を通して主に応える