公正な競争の基準が、ただ単に規則を並べただけではないことがわかるようになれば、つまり、基準とは宇宙の創造主の知恵と特性に基づいたガイドラインを表すものだとわかれば、選手たちは、自信をもって競争するとはどういうことか、理解できるようになる。そうすれば、自分の幸せが契約や議論、または試合の勝ち負けに左右されるのではないことを知った上で、競争社会を生き抜いていける、という事実を共に発見することができるはずだ。

限りある資源の奪い合いに集中するよりも、私たちを守ってくださる神の果てしないお力に目を向ければ、私たちは、自分だけでなく、皆にとって良い形の競争ができるようになる。

アメフトの競争は獰猛(どうもう)なまでに激しいが、その真っただ中で尊厳をもって生きていくとはどういうことか、ある監督はよく知っている。彼の名は、トニー・ダンジー。インディアナポリス・コルツを2007年のスーパーボウルで優勝に導いた男だ。NFLの監督というキャリアを通して、ダンジー氏はプロフットボール界の重圧のただ中にいるクリスチャンであることが、自分の生き方だと自覚していた。それゆえに、クリスチャンを懐疑的な目で見る周囲に対して、例えば冷静な振る舞いや誠実で穏やかな言葉遣いなどを通して、信仰を持って生きることがただ単に「OK」なだけではなく、激しい競争社会を生き抜くためには、むしろ最適なのだということを示している。ダンジー氏は、「静かなる力」というベストセラー著書の紹介インタビューの中でこう語っている。「主があなたをどこに置かれようと、あなたが今居るその社会で、インパクトを与えることができるのです。」

勝敗だけにとらわれずに自分のベストを尽くすことが可能だ、ということをあなたの競い方で示せば、あなたはあなたのいる社会で大きな影響を与えることができる。

私たちと同じように、ダンジー氏だって完全ではない。しかし彼は、自分の良心や品性を、一時的な成功という偽りの神にささげるようなことはしない、と固く決心した一人だ。試合の場で競技を超越した信仰を示すことにより、ダンジー氏は上から力を与えられた。彼はその力によって、試合を大切にしながらも、より高いものを目指すことができる。

尊厳を持って競争する

伝説のNFLの監督、ヴィンス・ロンバルディ氏は、「勝つのが全て、じゃない。勝つことしかない」ということばで有名だ。その言葉の意味については、いろいろ議論があるが、彼の発言は一般に、勝ち負けではなく試合の仕方が最も大切なのだ、という方針に真っ向から対立する考え方として引き合いに出される。勝つことが全て、という考え方は、「勝つことではなく、(試合に)参加することに意義がある」という近代オリンピックの信条にも反する。

ここで、勝つためにベストを尽くし、結果がどうであれ、良心や誇りや信頼を保つことが、自分や回りの人々にとってどれだけ大切か、注意深く考えるべきだろう。試合や人生の様々な場面で、勝つためにできる限りのことをしなければ、信仰を持つ人々にとって、自分や競争相手、そして神を敬うことにはならない。 勝つことは全てではないが、試合や人生のチャレンジを投げ出すのは、尊敬に値しない。

勝つために走れ

コリント人への手紙第一9章24節で、パウロは当時の読者に分かりやすい例話を使って話している。それは、現代のオリンピックのようなイベントで、イストミア祭と呼ばれる。このような競争環境を念頭に、パウロは「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(24節)と書いたのだ。

イストミア祭の出場選手達は、競争に勝つため一生懸命訓練する中で、二つのことを学んだ。第一に、優勝者はたった一人だということ。第二に、賞品は、どんなものでもいずれ朽ちてしまうということだ。

パウロは、朽ちることのない永遠の賞を勝ち取るために、人生のレースを走ることがいかに大切か、語っている。イストミア祭の選手達は、「朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(25節)とパウロは書いている。

イストミア祭の選手の例とパウロが示した霊的な応用の例に共通することは、勝つための努力だ。そして、読者に対し、一生懸命競争するように促している。全ての競争相手に対し、またあらゆる障害に対して競争し、神に認めて頂くという目的に向かって走れ、というのだ。公正なレースでは、事前に勝利が保証されている人は誰もいない。ただ、怠け者が勝つことはない。自分を過信する選手や、言い訳ばかりで全力を尽くさない選手に勝利が与えられることもないだろう。オリンピック、ビジネス、または受験と同じことが、信仰の偉大なレースにも言える。

強さをもって競争すること

キリスト者の中でも、特に激しい競争の中にいるクリスチャンは、勝利者になるには、 優しすぎるとか、いい人すぎるとか、いろいろな批判を受ける。それに対する反論として、実際、様々な競争において、名誉と誇りを保ちながら勝利を勝ち取ったクリスチャン達の名前を挙げてみよう。

ファーストフード産業の「チックフィレ」社長、トルエット・キャシー。元オリンピック体操選手のメアリー・ルー・レットン。映画やテレビ製作のケン・ウェールズ。クリスチャンは弱いなどという噂を物ともせずに、信仰を持って競争社会に立ち向かってきた人たちのリストは、更に続く。

さて、テモテという名の青年に向かって、パウロはこう書いている。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(IIテモテ1:7)。テモテはどうやら、時々不安でたまらなくなることがあったようだ。それは、パウロがコリント人への手紙第一の中で、コリントの教会の人々に言った次のような表現の中に見受けられる。「テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください」(16:10)。テモテへの手紙第二の中でパウロは、神がテモテにお与えになった仕事をきちんとやらなければならないと告げている。これを聖書解説者のヘンドリクセンは、「自分の不安と立ち向かいなさい」 ということだ、と説明している。また、テモテがそうできたのは、信仰を持つ者の内に住まわれ、力や愛、そして自己修養の源となってくださる神の聖霊のおかげだ。

パウロの励ましの言葉は、テモテのみならず、私たちにも語りかけられている。神が、 神を信じる全ての人々に、いつでも勇気の霊を与えてくださる、ということに気付かせてくれる言葉だ。

ピリピ人への手紙に、パウロはこう書いている。「私は、私を強くしてくださる方 (キリスト)によって、どんなことでもできるのです」(4:13)。彼が言いたかったのは、神が、神の民に何でもやりたい放題させてくださるということではない。パウロは、富める時も、貧しい時も、どんな時でもパウロ自身の中で、またパウロを通して行われる神の御業に満足することを学んだ、と言っている。

これは、私たちに何を教えているのだろうか。私たちのいのちと力の源は、日々の勝敗の結果ではなく、神にある、ということだ。世界の始まりから今日まで、競争の真っただ中にあっても神を信頼し、敬う人々は、変化の激しい状況の中にさえ、恵みと希望を見いだしてきた。

良い勝利者になること

自分の人生とか幸せとか存在価値とかは、全て勝利だけにかかっていると考える人に出会うことがある。彼らにとっての神とは、勝つことに他ならない。だから、品位をもって負けを認めることがなかなかできない。負けた時、言い訳をしたり、他人を責めたり、すねたり、フェアじゃないと不平を言ったりする。こんな選手は、ファンをがっかりさせ、競争自体をつまらないものにしてしまう。しかし、彼らの気持ちや痛みがわかるような気もする。私たちだって、負ける悔しさは、十分経験している。

それよりもっと問題なのは、品位をもって勝つことを知らない人々だ。もし、私たちもそんな一人だったら、自分の技術や努力の程度を測るために競争しているにすぎず、競争は、神がくださった大切な機会だということを理解していない可能性が高い。その結果、人をがっかりさせたり、勝利にうぬぼれたりして、競争そのものの価値を下げてしまうことだろう。

そんな人間になるより、パウロと共に次のように言えた方がよっぽどいい。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:12)。

このように満ち足りた心を持っていれば、勝ったときの喜びは恵みにあふれ、負けたときの失望の痛みは和らげられる。その根っこにある確信とは、次のようなものだ。本当に大切なことは、どんな良い物も、どんな良い経験もすべては神からの贈り物だと気付くことだ。

謙虚さをもって競争すること

2003年のこと、私の娘、メリッサの通っていた高校が、メリッサ・ブラノン記念ソフトボール場のそばに、若くして亡くなった彼女を偲ぶ銘板をかけたいと言って来た時、私たちは次のような聖句を入れてください、とお願いした。それは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い(なさい)」(エペソ4:2)というものだ。学生スポーツの選手として、彼女はそんな風に競争した。一般の競争でよくみられるプライドや敵対心とは、全く対照的なやり方だ。ラドヤード・キプリングの有名な詩、「IF(もしも)」のなかに、「謙虚で優しい勝利者は、勝利と惨敗に出くわした時、どちらの虚像にも全く同じように接することができる」とある。こういう勝利者の正しい態度について、詩の後半にはこう描かれている。「徳を保ちながら大衆と話し、庶民性を失わずに王達と並んで歩ける」。良き勝利者は、勝っても負けても、同じ態度だ。キリストのような謙虚さと、辛抱強さ、愛をもって生きている。

公正・誠実に競争すること

人生が勝ち負けで決まるわけではないことをよく知っているならば、神を信頼しているという姿勢を貫くことができる。

それと対照的に、どうしようもない負け犬たちと言えば、ここ何十年を振り返って、名誉やフェアプレイより勝利に固執した人たちだ。

例えば、スポーツ界の例(メダルを勝ち取った後に、ドーピングが発覚したオリンピック選手たち)や、ビジネス界の例(大金持ちになったが、不法行為がばれて捕まり、何億円もが泡と化してしまった者たち)、そして、悲しいかな、教会の例(信仰を礎とする社会で、この上ない尊敬を集めたにも関わらず、スポーツやビジネス界、政界に見られるのと同じような罪の誘惑に負けて失脚した指導者ら)などの例がある。

キリストの使徒パウロが書き残した教えは、あらゆる場面に当てはまる。例えば、「競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」(IIテモテ2:5)。

フェアプレイのルールを守ることは、健全な競争の中核をなす。これは最も重要な部分だ。だからこそ、スポーツ選手のドーピングが大事件として取り上げられるのだ。また、公務員の縁故採用汚職が告発され、罰せられる。また、株のインサイダー取引によって、不法な利益を得た者らに実刑判決が下される。政治においても、選挙違反を防ぐため、念入りな努力がなされる。

人生が、オリンピックやワールドカップ以外のところに見つけられる、という自信が無ければ、大変なことになる。本当に大切なのは、私たちに全てを授けてくださる神を深く信頼していることが明らかになる生き方をすることだ。このことを知っている者には、人生の素晴らしい褒美が待っている。

プロゴルファーのウェンディ・ワードは、そのような神に対する信頼を表す良い例だ。

2000年のこと、マクドナルドLPGAチャンピオンシップで、彼女は、道徳上のジレンマに直面した。トーナメントの最終ホールで、不思議なことが起こった。彼女が打とうと構えた時、パターは少しもボールに触れていないのに、ボールが動いてしまったのだ。それを見た者は一人もいない。

しかしワードは、少しでもボールが動けば、触っていなくともカウントされると知っていた。

クリスチャンの彼女にとって、どうすべきかは明らかだった。彼女は審判員を呼び、状況を説明した。書面の規則通り、審判員は、ワード氏のトータルスコアに一打加えた。そして、彼女のトーナメント成績は、282に終わった。

あの一打が重要だったのだ。あの一打で彼女は、13万3千ドル(約1213万円)分を失ってしまった。

試合後、ワードはこう語っている。「メジャーな試合で優勝できなかったのは、残念でした。でも、神の御前に正しいことをしたと思いますし、それが、私にとって最も大切なことです。」これは、熱気に満ちた競争の真っただ中にあって、真の安心と名誉とは、神の絶えざる力に頼ってこそ手に入れることができると気付いた人の例だ。

ワードは、そのトーナメントで優勝するため、厳しい練習に耐えてきたが、そんな中でも、最も大切なことは、彼女のいのちの源である神を心の底から敬うことだと理解していた。Dave Branon

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