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Amy Boucher Pye

Amy Boucher Pye

エミー・ブシャー・パイ氏は、北ロンドン在住のライターで講演活動もしています。著作にはThe Living Cross: Exploring God’s Gift of Forgiveness and New Lifeがあります。また、Finding Myself in Britain: Our Search of Faith, Home and True Identityで賞を取りました。英国のWoman Alive Book Clubを運営し、牧師館で家族と暮らしています。ブログ(英語)をwww.amyboucherpye.comまたはFacebookかTwitterの (@amyboucherpye)で読むことができます。

寄稿一覧 Amy Boucher Pye

惜しみなく与える

チャールズ・ゴードン将軍(1833-1885年)は、ビクトリア朝時代の英国の軍人で、中国など世界各地で任務に当たりましたが、英国にいるときは、収入の9割を寄付しました。ランカシャー地方で飢きんが起きると、授与された勲章の銘刻を削り取って現地に送り、その金を溶かして換金し、困窮者に食事の配給をするように言いました。その日の日記には「唯一残された価値あるものを、主イエスにささげた」と記されています。

悔い改めの贈り物

ジェーンは10代の息子の「やってない!」という言葉に落ち込みました。それはうそだと分かっています。彼女は神の助けを祈りつつ、もう一度尋ねました。しかし、息子はうそではないと言い張ったので、お手上げという身振りをしました。怒りを静めるため、その場を離れようとしたときに、肩に手が触れ、彼が謝る声がしました。息子は聖霊に示されて悔い改めたのです。

来て、礼拝せよ

多くの人が、世代を超え、気持ちよく賛美をささげていました。しかし、彼女は例外でした。泣きだしそうな赤ん坊をあやし、5歳の子に歌集を見せ、真ん中の子が走り出さないように押しとどめています。その時、後ろの席の年配の男性が、よちよち歩きの子の手を引いて会堂の中を歩こうと申し出ました。さらに、若い女性が上の子のために歌集を持ってくれました。状況は一変し、彼女は目を閉じて神を賛美し、礼拝しました。

神の大使館

チェコ共和国に暮らすルドミラは、夫を亡くした82歳の女性ですが、自分の家は「天の御国の大使館」だと語り、困窮したり傷ついたりしている人なら友人でも見知らぬ人でも喜んで迎えます。食事をふるまい、泊めることもあり、常に思いやりと祈り心で接します。聖霊の語りかけに頼って客人を助け、神がその人たちの祈りに応えるのを喜びます。

謙遜な姿勢

ヤンの優しい夫は、彼女が会合に出かけるとき、「手を後ろで組んでいれば大丈夫だよ」と言います。自分が人の関心を買おうとしたり、場を支配しようとしたりしていると気付くと、彼女はそうします。謙虚に人の話を聞く気持ちになるからです。自分の前にいる人を愛し、謙虚になって聖霊に用いられなければ意味がないと思い出すのです。

みことばと新年

ミシュランはフィリピンで育ちましたが、辛いことがあると良書に慰めを得ていました。大学生になったとき、ヨハネの福音書1章を読んで、「石のような心が強く動かされた」と言います。「君は言葉を愛しているが、ちょっと聞いてほしい。常に暗闇を切り開くことのできる永遠のことばがある。それはことばなるお方、君を愛してくださることばだ」と誰かに言われたような気がしました。

平和の君

ジョンは風邪から肺炎を発症し入院しました。母はがんの治療のために同じ病棟の上階の部屋にいます。ジョンの心は不安で押しつぶされそうでした。そしてクリスマスイブ。ラジオから流れる「さやかに星はきらめき」を聴きながら、彼は神の深い平安に包まれました。愛する救い主が降誕された夜について語る歌詞に聞き入りました。「あたらしき朝はきたり さかえある日はのぼる」そのとき、ジョンの不安は消え去りました。

大ぜいの群衆

日曜日の朝、私たちはコロナ禍で離れ離れでしたが、喜びと期待を胸に礼拝に集い、ガヴィンとティハナの結婚を祝いました。スペインやポーランド、セルビアなどにいる親族や友人たちも参加できるように、ITに詳しいイラン人の友人が、式の様子を動画配信しました。この工夫によって、みんなは、二人の結婚の誓いを、制約のある中でも見守れたのです。神の御霊が私たちを一つにし、喜びをくださいました。

主をほめたたえよ

アメリカ中西部の蒸し暑い夏、1週間の弟子訓練会議の参加者たちは、最終日に訪れた涼風を心から歓迎しました。天候の変化と会議中に成された神の驚くべきみわざに感謝して、数百人が声を合わせて賛美しました。多くの人が、神に心から歌う解放感を味わい、各々の心、たましい、身体、思考を、神にささげました。数十年が経った今も、あの時の神を賛美する純粋な喜びとその不思議を忘れることはできません。