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Amy Boucher Pye

Amy Boucher Pye

エミー・ブシャー・パイ氏は、北ロンドン在住のライターで講演活動もしています。著作にはThe Living Cross: Exploring God’s Gift of Forgiveness and New Lifeがあります。また、Finding Myself in Britain: Our Search of Faith, Home and True Identityで賞を取りました。英国のWoman Alive Book Clubを運営し、牧師館で家族と暮らしています。ブログ(英語)をwww.amyboucherpye.comまたはFacebookかTwitterの (@amyboucherpye)で読むことができます。

寄稿一覧 Amy Boucher Pye

救いを祈り求める

ミネソタ州は19世紀末に5年に渡ってイナゴの害に苦しみました。人々はタールでイナゴを捕獲したり、ふ化を止めようと畑を焼き払ったりしました。農民は飢餓の瀬戸際で必死に神の助けを求め、多くの人はともに祈るべきだと思いました。州知事も同意し、全州で4月26日が祈りの日になりました。

満ち足りる秘訣

水泳中の事故で四肢麻痺となり、退院して家に帰ると、ジョニー・エレクソン・タダの生活は一変しました。玄関扉は車椅子には狭く、洗面台は高すぎました。新しい方法を学ぶと決意するまでは、食事の介助が必要でした。初めて腕の添木に特別なスプーンを付けて食べようとすると、ソースを服にこぼして落ち込みました。しかし、彼女はくじけません。ジョニーは語ります。「私の秘訣はイエスさまに頼ることです。『神よ、このことを助けてください』とお願いするのです。」もうスプーンは問題なく使えます。

信仰のあかし

作家で伝道者のベッキー・ピパートが外国に住んでいた時のこと。行きつけのネイルサロンのヘザーに福音を伝えたかったのですが、きっかけがつかめません。そういう話には興味がないようでした。それで、祈ってから出かけました。サロンで古い雑誌をめくっていると、あるモデルの写真に釘付けになりました。ヘザーが「どうしたの」と尋ねたので、そのモデルは自分の友だちで、以前、ヴォーグ誌の表紙を飾ったのだと話しました。そして、彼女がイエスを信じたいきさつを語ると、ヘザーは熱心に聞いてくれました。

正式な養子

養子縁組が法的に認められ、ミレーナの出生証明書と旅券を夫婦で受け取ったとき、リズはうれし涙を流しました。今日からミレーナは正式に自分たちの娘で、家族の一員です。その過程を振り返る中で、リズは、人がイエスの家族になった時に起こる真の身分変更について黙考しました。私たちは、生まれながらの罪や欠けに縛られず、神の養子になって、神の御国に正式に完全に入れられたのです。

内住のキリスト

幼かった娘に内住のキリストについて説明したことがありました。イエスはあなたの内におられる、と言うと、娘は「ポンポンにいるの?」と尋ねました。私は「イエスさまを食べちゃったわけではないけれど、そこにおられるのよ」と答えました。

増し加わる恵み

ルワンダの虐殺で夫と子どもを殺害した人を赦した経緯を振り返り、ベアタは「私はイエスの御業を基として赦しました。イエスは古今のすべての悪い行いに対する罰を身代わりに受けられたからです。私たちの勝利は、唯一、主の十字架です」と言いました。

王家の人

シルヴィアは夫婦でスコットランドの舞踏会に行き、英国の女王に会いました。その後、女王一家が訪問を希望されていると言われ、ふさわしく歓迎できるかしらと不安でした。卓上に飾る花を庭で摘んでいても、胸が苦しくなりました。すると、神が語られました。王の王なる神が、いつもともにいるではないかと…。シルヴィアの心は平安になり「要するに、ただ女王さまが来られるというだけなんだから」と思えました。

蜜よりも甘い

その日は皆が万国博覧会に行くだろうと、シカゴの全劇場は閉まっていました。1893年10月、70万人以上が博覧会に集う一方で、ドワイト・ムーディ(1837-1899年)は、町の反対側のホールをキリスト教の教えを聞く人々で埋め尽くそうと考えていました。友人のR.A.トーリー(1856-1928年)は、大丈夫だろうかと心配でした。しかし、神の恵みにより成功したのです。トーリーは後に、ムーディが「この世界が心から知りたいと希求している書、つまり聖書」を知っていたので、人々が集まったのだと結論づけました。そして、多くの人がムーディのように聖書を愛し、心を込めて日々読んで欲しいと思いました。

朝ごとに新しい

弟のポールは重度のてんかんを患い、10代になるとさらに悪化しました。夜間の発作は6時間以上も続き、当人にも両親にも耐え難いものでした。医師は一日の内の数時間は意識のある状態を確保しながら発作を抑える方法を模索しましたが、うまくいきません。両親は「神よ、神よ、助けてください!」と泣きながら祈りました。