僕はどこから来たの
アフリカ系米国人の7歳の男の子トビアスが、私の心を揺さぶる質問をしました。「アダムとエバは白人だけど、黒人はどこから来たの?」 私は、アダムとエバの肌の色が何色だったかわからないと答え、なぜ、ふたりが白人だと思うのかと尋ねました。するとトビアスは、教会や図書館にある子ども聖書の絵は、みんな白人だと言いました。私は絶句しました。こういうことが原因で、自分が劣っているとか、神の被造物ではないとさえ感じるかもしれないと思いました。
神の恩寵
ロバート・ロビンソン(1735~1790年)は若い頃、不良仲間といろいろな悪さをしていましたが、17歳のある日、マタイの福音書3章7節を主題聖句としたジョージ・ホイットフィールド牧師の説教を聞いて、キリストを信じて救われなくてはならないと自覚しました。主イエスはロビンソンの人生を変えてくださり、彼は牧師になりました。また、讃美歌も作詞していますが、中でも有名なのは聖歌273番「いのちの泉に」です。
私は、この聖歌に記されている神の驚くべき恩寵(おんちょう)について、このところ思い巡らしています。作者は、恵み深い神の恩寵が非常に大きいことを賛美していますが、それは、パウロの次の言葉に通じています。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる…キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」 (Ⅱコリ5:14-15)。
自分が何かをした見返りとして神の愛や恩寵をいただくことはできません。むしろ、神が私たちに惜しみなく慈愛をほどこされるので、私たちは自らの生涯をささげて、この神を愛さずにはいられないのです。それが具体的にはどんな姿になるのかは分かりませんが、神のみそば近くを歩み、みことばに耳を傾け、神に仕え、従うことは含まれているでしょう。また、そうさせる動機は、愛と感謝です。
私たちはキリストに恩義があります。ですから、日々イエスのために生きていきましょう。このお方はご自分の命を捨てて私たちを救ってくださったのですから。
神の力強い御腕
友人のジョアンの夢は、ピアニストになってソロの演奏家か伴奏者として各地を回ることでした。しかし、大学でピアノを学んでいたとき、右腕に腱鞘炎を患って、演奏家に必要な強い腕力を失ってしまいました。それで結局、音楽史と文学の学位を取って大学を卒業しました。
ジョアンはクリスチャンでしたが、ここ数年間は神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいました。大学を卒業後、さらに困難な状況に見舞われると、彼女は、神が自分を呼び戻そうとなさっていると感じました。そして、主のみもとに戻ったのです。
結局、彼女の腕は癒されて強くなり、演奏家として旅をするという夢は実現しました。彼女は、「私は今、自分のためにではなく神の栄光のために演奏しています。神が手を差し伸べてくださったおかげで、私の霊性と腕力が回復されました。ですから、神から賜った才能を用いて神に仕えることができるのです」と語っています。
神は「伸ばした腕」(出6:6)によって、イスラエル人をエジプトの苦役から救うと、モーセに約束されました。反抗を繰り返すイスラエル人がこの約束を疑ったにもかかわらず、ご自分の約束を守られました(14:30-31)。神の力強い御腕は、私たちに向かっても差し出されています。私たちの状況がどう展開しようと、神は信頼できるお方です。神の子どもたちのために、みこころを成されます。私たちは神の力強い御腕を頼りにすることができます。
あなたを呼んでおられる
手荷物検査を終えて、搭乗ゲートに向かって歩いていたときでした。名前が呼ばれるのを聞いたのです。「お客さまのお呼び出しをいたします。アン・セタス様、アン・セタス様。」セタスはよくある苗字ではないので、私のことだと思いました。航空会社の人に言われたとおり、赤い電話の受話器を取り、名前を告げ、なぜ呼び出されたのか尋ねました。しかしオペレーターは「あなたを呼び出してはいません」と言います。私は、「あれは確かに私の名前でした」と言いましたが、彼は「呼び出していない」の一点張りです。なぜ、私の名が呼び出されたのか、結局分からずじまいでした。
はるか昔、サムエルという名の少年は、自分の名前が呼ばれているのを聞きました(Ⅰサム3:4)。聖書によると、「サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されてい」ませんでした(7節)。そこで、神殿の祭司エリは、サムエルを助けなければなりませんでした。サムエルは、誰が呼んでおられるのかを理解しなくてはならなかったからです。そういうことがあって、神はサムエルの人生に対するご計画を明らかにされました。
神は私たちの人生にもご計画をお持ちで、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)と、私たちの心に語りかけておられます。これが、神の呼びかけです。主の救い、安息、そして平安を受け取りなさいと、呼びかけておられます。
救い主は、私のもとに来なさいと、私たちを呼んでおられます。
あいしてる
夫婦で公営プールにいたとき、周りの人たちが空を見ているのに気づきました。小型飛行機が飛んでいて、煙で何かを書いていました。じっと見てみると、パイロットは「あ・い・し・て・る」と書いていきます。人々は、ひょっとしたらプロポーズではないかと推測し始めました。ロマンチックな男性が恋人と一緒に、どこか近くのバルコニーにいて、「結婚してください」と、今にも告白するのではないだろうかと。さらに見ていると、「あ・い・し・て・る、ジ」となり、若い女の子たちの「きっとジェンよ、もしかしたらジェシカかな」という声が聞こえました。パイロットはさらに書き続けました。すると、その名は「ジーザス」でした。彼は、イエスを愛していると多くの人たちに宣言したのです。
私の友だちは、「愛しています、主よ」といって、祈りを締めくくります。彼は「『愛しています』と言わずにはいられないんだ。ぼくのために、こんなにまでしてくれたのだから」と言います。今日の聖書のみことばはローマ人への手紙6章1節~11節ですが、使徒パウロはここでイエスの御業について語っています。イエスは十字架にかけられ、葬られ、復活しました。この御業のために、イエスを信じる私たちは、今新しいいのちを持っています(4節)。もはや罪や死の恐怖に支配されず(6節、9節)、キリストと永遠に生きるために復活します(8節)。このような御業は、私たちが心を込めて愛するのに、十分に値します。
「愛しています、ジーザス」と言うのは、当然です。
打ち勝つ
ラジオでセミナーの宣伝をしていました。「死に永遠に勝ち続けよう。その方法をお教えします」と面白いことを言っていました。どんな方法で死に勝ち続けられるというのだろうと、少し興味を持ちました。ダイエットかエクササイズ、または死後の身体を冷凍するという類の話かしらと思いましたが、実は私の聞き違いで、正しくは「借金に勝ち続け…」でした。(注:英単語の「死」と「借金」は音が少し似ています。)
最高のニュースは、イエスが私たちの負債を支払ってくださったので、私たちは死に打ち勝つことができるというものです(Ⅰコリ15:55-57)。罪という負債があると、神から切り離されています。しかし、イエスは自らすすんで十字架にかかり、ご自分のいのちで私たちの負債を払ってくださいました。マグダラのマリヤと他のマリヤは、イエスの死から3日目にイエスが葬られた墓を訪れましたが、御使いが現れて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」と語るのを聞きました(マタ28:6)。ふたりは大喜びで弟子たちにそれを知らせに行きましたが、その途中、イエスがふたりの前に現れました。主は「平安あれ」(口語訳 9節)と言われました。イエスは復活され、イエスに従う人たちには喜びが与えられました。
イエスは死のとげを取り去られました(Ⅰコリ15:55)。神の御子イエスの死と復活を信じるならば、私たちもまた勝利します。イエスの完全な御業によって、私たちは永遠に死に勝ち続けられます。
祈る友人
数ヶ月間会っていなかった友人のアンジーと一緒に昼食をとりました。彼女は食事が済むと、メモ帳を取り出しました。そこには、前回会ったときに私が祈って欲しいと頼んだことが書きつらねられていて、彼女はずっと祈っていてくれたのです。アンジーはリストを読み上げながら、何か進展はなかったかと尋ねました。そして今度は、彼女の祈りのリクエストについて、私のほうが話を聞きました。祈り合う友人がいるのは、何という励ましでしょう。
使徒パウロは、自分が奉仕した教会の人々と互いのために祈り合っていました。テサロニケ教会も、そのような教会のひとつです。パウロは、テサロニケ教会の人々の信仰と愛、そして、キリストへの望みについて、いつも神に感謝していました(I テサ1:2-3)。パウロは再会を願って「昼も夜も」祈りました(3:10-11)。神が「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれてさせてくださ」るようにと願いました(12節)。彼らの心が、神の御前で責められるところのないようにとも祈りました(13節)。テサロニケの人々は、パウロが彼らを心配して祈っていることを手紙で読み、励まされたに違いありません。自分にも神のご臨在と御力が必要だと承知していたパウロは、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」と頼んでいます(5:25)。
天の父と話したい、と願う心を私たちに与えてくださった神に感謝します。私たちが、誰かの祈りの友になることを学んでいきますように。
こっそり逝ったおじいちゃん
従兄弟のケンは4年もの間、癌と勇敢に闘いました。最後の日には、妻や3人の子どもたち、そして孫たちが、次々に病室にやって来て、特別な別れの時を過ごしていました。ところが、たまたま部屋に誰もいなかった数分の間に、ケンは永遠への旅に出かけて行ったのです。家族のみんながそのことに気づいたとき、幼い孫娘が、かわいらしく言いました。「おじいちゃんは、こっそり逝っちゃったんだね。」
ほんの少し前まで、神はケンと一緒にこの地上におられました。しかし、次の瞬間、ケンのたましいは、神とともに天国に移されました。
詩篇16篇は、ケンが好きだった詩篇です。自分の葬儀では、ここを読んで欲しいと言っていました。詩篇の作者ダビデは、神との個人的な関係ほど貴重な宝はないと語りましたが、ケンもまったく同感でした(16:2、5)。ダビデは、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず…」と述べました(16:10)。神を避け所とするならば、死がクリスチャンのいのちを奪い取ることはできません。ダビデは、そのことが分かっていました。ケンであれ、誰であれ、イエスを救い主と信じる人は誰でも、死に捨て置かれることはありません。
イエスが死んで復活してくださったので、私たちもいつの日かよみがえります(使2:25-28、Ⅰコリ15:20-22)。そして、神の右には楽しみがとこしえにあることを知ります(詩16:11)。
最高の人生
数ヶ月前、フロリダに出張した帰りの飛行機の座席は、思いがけず足元のスペースが広い席でした。その上、隣は空席だったのでラッキーです。これならば、狭い場所に縮こまらなくてよいどころか、ゆっくり昼寝ができるかもしれません。
しかしふと、あまり快適でない席にいる同僚たちのことを思いました。何人かに隣の席に来るように誘いましたが、驚いたことにあれこれ理由をつけて誰も移動しません。移動するのはめんどうだし、今の席で十分だと言うのです。
クリスチャンは、もっと大切なことに人を招待しなくてはなりません。招待を受け入れる人も、そうでない人もいるでしょうが、自分はキリストを信じる新しい人生を受け取り、他の人にも同じ経験をして欲しいと願っているのなら、そうすべきです。ヨハネの福音書1章40節を読むと、アンデレは、イエスについて行ったことが分かります。そして最初にしたことは、兄弟のシモンを見つけて、メシヤであるイエスに会わせる、ということでした(41節)。イエスはこの兄弟たちに、キリストを知り、キリストの約束を体験する新しい生き方を示されました。その約束とは次のことです。イエス・キリストの贖い(ロマ3:24)、イエスは決して離れずあなたのそばにいる(ヘブ13:5)、イエスは希望にあふれさせてくれる(ロマ15:13)、イエスは平安を与えてくれる(ヨハ14:27)、そして、イエスはいつまでもともにいてくださる(Ⅰテサ4:17)。
あなたもイエスを信じる輪に加わりませんか。イエスは最高の人生をくださいます。