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Bill Crowder

Bill Crowder

ビル ・ クラウダー氏は、コンテンツ部門の責任者です。Discovery Series (探求の書シリーズ) や Discovery House Publishers に数多くの著書があります。クラウダー氏と妻マーリーンには 5 人の子どもと数人の孫があります。

寄稿一覧 Bill Crowder

あなたの旅

聖書のみことば:ヨハネ14:15-21

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。―ヨハネ14:18

私は1960年代という反抗的な時代に育ち、少年の頃は宗教に否定的でした。小さい頃から教会に行っていましたが、自分の信仰を持ったのは、大きな事故に遭った20代の前半でした。そしてイエスの愛を伝える人生を送り、それは正に人生の旅でした。

この不完全な世界を生き抜くことを「旅」と表現するのは、言い得ているでしょう。山や谷、川や平原、渋滞の高速道路、ひとりぼっちの寂しい道、上り坂、下り坂…。私たちは歩みます。そして、喜び、悲しみ、争い、喪失、心痛や孤独など、様々な体験を重ねます。私たちには先のことは見えませんから、あるがままを受け入れなければなりません。こんな方が良かった、あんな方が良かった、とは言えません。

しかし、キリストに従うなら、ひとり旅ではありません。聖書が語るように、神がともにおられないところは皆無です(詩139:7–12)。神は私たちを見放したり、見捨てたりされません(申31:6、ヘブ13:5)。イエスは聖霊をくださると約束され、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」と言われました(ヨハ14:18)。

人生の旅の途上で、試練であれ、チャンスであれ、どんなことに遭遇しても、私たちは大丈夫です。神が必ずともにいると約束してくださったのですから。

愛する主よ、私が進む道をご存じのあなたが、ともに歩んでくださることに感謝します。日々、あなたのご臨在と助け、そして知恵に頼りながら、生涯の歩みをつづけられるように助けてください。

信仰は、それがどこに導かれていくのか知らないが、 導き主がどんな方であるかを知っており、また愛している。 ―オズワルド・チェンバーズ著 「いと高き方のもとに」

サッカーと羊飼い

英国のサッカーで面白いのはチームの歌です。ファンが試合開始時に歌うのですが、歌詞は楽しいもの、妙なもの、驚くものもあります。例えば、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンは、詩篇23篇を歌います。スタジアムの正面にみことばが映し出され、良き羊飼いのご加護が、試合を見に来た人々にあるようにと高らかに歌い上げます。

コミュニケーション

アジアに出張中、説教準備の読み物などを入れたiPadが故障し、真っ暗な画面になりました。修理屋を見つけましたが、次の問題は言語です。ところが、店の人はあるソフトを起動させ、中国語でタイプしました。すると文章が英語に翻訳され、英語の文章は中国語に翻訳されました。こうして、コミュニケーションが成立したのです。

涙の海

マサチューセッツ州ボストンに「涙の海を渡る」という銘板がありますが、これは1845年から数年続いたアイルランドのジャガイモ飢饉の際に、勇敢に大西洋を渡った人たちを記念しています。この災害で100万人以上の人々が亡くなり、更に100万人以上の人々が故郷を捨て、海を渡りました。この状況をジョン・ボイル・オライリーが「涙の海」と詩的に名づけました。彼らは、飢餓と苦悩に追い立てられながら、必死に希望を求めたのです。

決して滅びない

南仏で友人と休暇中のチャーチル元首相は、暖炉にあたりながら音を立てて燃える薪を見ていました。オズ・ギネスの著書「召し」によれば、チャーチルはその時「薪がうめいている。滅びゆくとはどういうことか、私には分かる」と言ったそうです。

オリーブ搾りの石

それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 —伝道者の書3:1

ガリラヤ湖畔のカペナウムの村を訪れると、古いオリーブ搾りの石を見学することができます。玄武岩で掘られたこの石は、二つの部分、土台の臼とぐるぐる回す輪から成り立っています。臼は大きくて丸く、内側が削り取られて桶のようにくぼんでいます。このくぼみにオリーブの実を入れ、その上に重い石の輪を転がして、油を搾ります。

イエスは死の前夜、オリーブ山に上り、エルサレムの町を眺められました。そして、ゲツセマネと呼ばれる園で、これから起こることを知った上で、天の父に祈られました。

「ゲツセマネ」とは、「オリーブを搾る所」という意味です。キリストは「苦しみもだえて…切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と聖書は語ります(ルカ22:44)。この園の名は、イエスが私たちのために、いかに苦しんで祈られたかを象徴します。

神のひとり子は苦しみ死なれて「世の罪」を取り除き(ヨハ1:29)、壊れていた神と人との関係を修復してくださいました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られているとおりです(イザ53:4-5)。

私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。

父なる神さま、神のひとり子が私のために忍ばれたことを 理解できるように助けてください。私の罪のために、そして、 私を助けるために御子を砕かれた神の愛の深さを 知ることができますように。

かくて我は癒えたり 罪は我を去りたり (聖歌437番)

オリーブ搾りの石

聖書のみことば:マルコ14:32-39

ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」—マルコ14:32

ガリラヤ湖畔のカペナウムの村を訪れると、古いオリーブ搾りの石を見学することができます。玄武岩で掘られたこの石は、二つの部分、土台の臼とぐるぐる回す輪から成り立っています。臼は大きくて丸く、内側が削り取られて桶のようにくぼんでいます。このくぼみにオリーブの実を入れ、その上に重い石の輪を転がして、油を搾ります。

イエスは死の前夜、オリーブ山に上り、エルサレムの町を眺められました。そして、ゲツセマネと呼ばれる園で、これから起こることを知った上で、天の父に祈られました。

「ゲツセマネ」とは、「オリーブを搾る所」という意味です。キリストは「苦しみもだえて…切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と聖書は語ります(ルカ22:44)。この園の名は、イエスが私たちのために、いかに苦しんで祈られたかを象徴します。

神のひとり子は苦しみ死なれて「世の罪」を取り除き(ヨハ1:29)、壊れていた神と人との関係を修復してくださいました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られているとおりです(イザ53:4-5)。

私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。Bill Crowder

父なる神さま、神のひとり子が私のために忍ばれたことを理解できるように助けてください。私の罪のために、そして、私を助けるために御子を砕かれた神の愛の深さを知ることができますように。

永遠のいのちは受け取る準備の出来ている人に無料で提供される贈り物だ。

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最も偉大な救いの使命

大嵐によって、1952年2月18日、SSペンドルトン号はマサチューセッツの沖合、約16キロの海上で真っ二つに割れ、乗組員40人以上は暴風雨の中、沈んでいく船の船尾に取り残されました。この一報がチャタムの沿岸警備隊に届くと、一等水兵のバーニー・ウェバーは、3人の仲間と救助艇に乗り込み、不可能と目される救出に向かい、32人の乗員たちを助けました。彼らの勇敢な行動は、米国沿岸救助隊史上最大の救出で、2016年公開の映画「ザ・ブリザード」の題材になりました。

今、世界が必要としているもの

米国に「今、世界が必要としているものは愛。甘い愛。」と歌う往年のヒット曲があります。その歌は、「制覇する山も川もいらない。世界に必要なのは愛。特定な人だけではなく、みんなを愛する愛。」と訴えました。当時の若者たちは、この歌を大合唱しました。

多くの人は、このテーマに共感するでしょう。私たちは、クリスマスや大切な人の誕生日にプレゼントを贈り、台風や地震などの被災者に義援金を送ります。また、生活に困っている人に手を差し伸べるボランティア活動を尊いと思います。

さて、75歳のラッセル・プレイサンス氏は、地元の新聞に掲載されていた貧しい家族のことを読んで、ささやかな愛を贈りたいと考えました。そこで、食料品と子どものオモチャ、そして少しばかりのお金を持って、その家族を訪ねたそうです。

このプレイサンス氏の親切は、とんでもない事件を引き起こしました。何と、その家の主人が、数日後、プレイサンス氏にナイフを突き付け、財布と車を奪ったのです。

プレイサンス氏の例を挙げるまでもなく、私たちは愛の乏しい世の中に暮らしています。愛が愛を生むのなら、愛はみんなにゆきわたるでしょう。「最後に愛は勝つ」のが現実なら、もっとたくさんの人が、どんなに苦しくても愛を実践しようと思うでしょう。しかし、愛は必ず報われるわけではありません。また、自分が愛に報いようとするときでさえ、自分の都合のいいように愛を解釈しています。というのも、愛の意味は人によってまちまちで、例えば次のようなことを意味するからです。

  • 一時的な感情
  • 性的な関係を曖昧に言うこと
  • 人のために犠牲を払うこと
  • 批判せず受容すること
  • 気持ちを隠さずに率直であること

愛はキラキラと輝くもの。

愛は英語でLOVEですが、日常会話で以下のように使います。

“I love blue.”(青が好きです。)

“I love my children.”(自分の子どもたちを愛しています。)

“I love Hanshin Tigers.”(阪神タイガースの大ファンです。)

“I am in love.”(私は恋をしています。)

この例からお分かりのように、LOVE(好きだ。愛している。)とひとことに言っても、その意味はいろいろです。いくつものニュアンスを持っているので、たとえ、ふたりの人間が「愛」を誓いあったとしても、その誓いの中身である「愛」に対する認識が、完全にずれている危険性があります。同時に、「愛」は非常に抽象的で曖昧なものだから、そんなものよりもっと大切なことがあると考える人もいます。

しかし、聖書は「愛」の重要性を明言しています。使徒パウロは、怒り争っていた人々に、次のように書き送りました。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)

この手紙は、献身や犠牲の大切さを知っている人たちに宛てて書かれたものです。コリントの教会の人たちは、信仰、知識、霊の賜物、強い指導力、そして熱いメッセージの重要性をよく心得ていました。

この人たちの問題は、今日の私たちの問題とよく似ています。つまり、自分の関心事だけに一生懸命になってしまい、信仰と霊的な知識が本来目指すべきゴールを見失ってしまったことです。人は神のみこころから離れて聖霊の賜物を探求したり、聖書を学んだりすることもあるのに、彼らはうっかりしていました。自らが満たされることを求めるあまり、一番大切なものを忘れかけていたのです。