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Bill Crowder

Bill Crowder

ビル ・ クラウダー氏は、コンテンツ部門の責任者です。Discovery Series (探求の書シリーズ) や Discovery House Publishers に数多くの著書があります。クラウダー氏と妻マーリーンには 5 人の子どもと数人の孫があります。

寄稿一覧 Bill Crowder

ちっぽけだと感じても

デヴィッド・リーン監督の『アラビアのロレンス』は、アカデミー賞受賞監督のスティーブン・スピルバーグなど、多くの映画人に影響を与えました。スピルバーグは「自分が未熟だと感じました。未だにそう感じます。それほどあれは偉大なのです」と語っています。

驚くべき救い主の御名

名前は、人間関係において重要な意味があります。そして、神との関係においては名前がさらに重要です。著者ビル・クラウダーは、イザヤ書9章6節に記された「不思議な助言者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」という神の御名に注目し、これらの御名から、神はどのようなお方なのか、私たちが神を信頼できる根拠は何なのかを解き明かします。

愛のためか、お金のためか

アイルランドの詩人オスカー・ワイルドは「若い時は、お金が人生で最も大切なものだと思っていた。老いた今、その通りだ」と言いました。これは皮肉です。ワイルドは46歳で亡くなったので、本当は「老いて」 はいません。彼は人生がお金でないことは十分理解していました。

あなたの旅

聖書のみことば:ヨハネ14:15-21

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。―ヨハネ14:18

私は1960年代という反抗的な時代に育ち、少年の頃は宗教に否定的でした。小さい頃から教会に行っていましたが、自分の信仰を持ったのは、大きな事故に遭った20代の前半でした。そしてイエスの愛を伝える人生を送り、それは正に人生の旅でした。

この不完全な世界を生き抜くことを「旅」と表現するのは、言い得ているでしょう。山や谷、川や平原、渋滞の高速道路、ひとりぼっちの寂しい道、上り坂、下り坂…。私たちは歩みます。そして、喜び、悲しみ、争い、喪失、心痛や孤独など、様々な体験を重ねます。私たちには先のことは見えませんから、あるがままを受け入れなければなりません。こんな方が良かった、あんな方が良かった、とは言えません。

しかし、キリストに従うなら、ひとり旅ではありません。聖書が語るように、神がともにおられないところは皆無です(詩139:7–12)。神は私たちを見放したり、見捨てたりされません(申31:6、ヘブ13:5)。イエスは聖霊をくださると約束され、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」と言われました(ヨハ14:18)。

人生の旅の途上で、試練であれ、チャンスであれ、どんなことに遭遇しても、私たちは大丈夫です。神が必ずともにいると約束してくださったのですから。

愛する主よ、私が進む道をご存じのあなたが、ともに歩んでくださることに感謝します。日々、あなたのご臨在と助け、そして知恵に頼りながら、生涯の歩みをつづけられるように助けてください。

信仰は、それがどこに導かれていくのか知らないが、 導き主がどんな方であるかを知っており、また愛している。 ―オズワルド・チェンバーズ著 「いと高き方のもとに」

サッカーと羊飼い

英国のサッカーで面白いのはチームの歌です。ファンが試合開始時に歌うのですが、歌詞は楽しいもの、妙なもの、驚くものもあります。例えば、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンは、詩篇23篇を歌います。スタジアムの正面にみことばが映し出され、良き羊飼いのご加護が、試合を見に来た人々にあるようにと高らかに歌い上げます。

コミュニケーション

アジアに出張中、説教準備の読み物などを入れたiPadが故障し、真っ暗な画面になりました。修理屋を見つけましたが、次の問題は言語です。ところが、店の人はあるソフトを起動させ、中国語でタイプしました。すると文章が英語に翻訳され、英語の文章は中国語に翻訳されました。こうして、コミュニケーションが成立したのです。

涙の海

マサチューセッツ州ボストンに「涙の海を渡る」という銘板がありますが、これは1845年から数年続いたアイルランドのジャガイモ飢饉の際に、勇敢に大西洋を渡った人たちを記念しています。この災害で100万人以上の人々が亡くなり、更に100万人以上の人々が故郷を捨て、海を渡りました。この状況をジョン・ボイル・オライリーが「涙の海」と詩的に名づけました。彼らは、飢餓と苦悩に追い立てられながら、必死に希望を求めたのです。

決して滅びない

南仏で友人と休暇中のチャーチル元首相は、暖炉にあたりながら音を立てて燃える薪を見ていました。オズ・ギネスの著書「召し」によれば、チャーチルはその時「薪がうめいている。滅びゆくとはどういうことか、私には分かる」と言ったそうです。

オリーブ搾りの石

それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 —伝道者の書3:1

ガリラヤ湖畔のカペナウムの村を訪れると、古いオリーブ搾りの石を見学することができます。玄武岩で掘られたこの石は、二つの部分、土台の臼とぐるぐる回す輪から成り立っています。臼は大きくて丸く、内側が削り取られて桶のようにくぼんでいます。このくぼみにオリーブの実を入れ、その上に重い石の輪を転がして、油を搾ります。

イエスは死の前夜、オリーブ山に上り、エルサレムの町を眺められました。そして、ゲツセマネと呼ばれる園で、これから起こることを知った上で、天の父に祈られました。

「ゲツセマネ」とは、「オリーブを搾る所」という意味です。キリストは「苦しみもだえて…切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と聖書は語ります(ルカ22:44)。この園の名は、イエスが私たちのために、いかに苦しんで祈られたかを象徴します。

神のひとり子は苦しみ死なれて「世の罪」を取り除き(ヨハ1:29)、壊れていた神と人との関係を修復してくださいました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られているとおりです(イザ53:4-5)。

私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。

父なる神さま、神のひとり子が私のために忍ばれたことを 理解できるように助けてください。私の罪のために、そして、 私を助けるために御子を砕かれた神の愛の深さを 知ることができますように。

かくて我は癒えたり 罪は我を去りたり (聖歌437番)