寄稿者

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Bill Crowder

Bill Crowder

ビル ・ クラウダー氏は、コンテンツ部門の責任者です。Discovery Series (探求の書シリーズ) や Discovery House Publishers に数多くの著書があります。クラウダー氏と妻マーリーンには 5 人の子どもと数人の孫があります。

寄稿一覧 Bill Crowder

サッカーと羊飼い

英国のサッカーで面白いのはチームの歌です。ファンが試合開始時に歌うのですが、歌詞は楽しいもの、妙なもの、驚くものもあります。例えば、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンは、詩篇23篇を歌います。スタジアムの正面にみことばが映し出され、良き羊飼いのご加護が、試合を見に来た人々にあるようにと高らかに歌い上げます。

コミュニケーション

アジアに出張中、説教準備の読み物などを入れたiPadが故障し、真っ暗な画面になりました。修理屋を見つけましたが、次の問題は言語です。ところが、店の人はあるソフトを起動させ、中国語でタイプしました。すると文章が英語に翻訳され、英語の文章は中国語に翻訳されました。こうして、コミュニケーションが成立したのです。

涙の海

マサチューセッツ州ボストンに「涙の海を渡る」という銘板がありますが、これは1845年から数年続いたアイルランドのジャガイモ飢饉の際に、勇敢に大西洋を渡った人たちを記念しています。この災害で100万人以上の人々が亡くなり、更に100万人以上の人々が故郷を捨て、海を渡りました。この状況をジョン・ボイル・オライリーが「涙の海」と詩的に名づけました。彼らは、飢餓と苦悩に追い立てられながら、必死に希望を求めたのです。

決して滅びない

南仏で友人と休暇中のチャーチル元首相は、暖炉にあたりながら音を立てて燃える薪を見ていました。オズ・ギネスの著書「召し」によれば、チャーチルはその時「薪がうめいている。滅びゆくとはどういうことか、私には分かる」と言ったそうです。

オリーブ搾りの石

それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 —伝道者の書3:1

ガリラヤ湖畔のカペナウムの村を訪れると、古いオリーブ搾りの石を見学することができます。玄武岩で掘られたこの石は、二つの部分、土台の臼とぐるぐる回す輪から成り立っています。臼は大きくて丸く、内側が削り取られて桶のようにくぼんでいます。このくぼみにオリーブの実を入れ、その上に重い石の輪を転がして、油を搾ります。

イエスは死の前夜、オリーブ山に上り、エルサレムの町を眺められました。そして、ゲツセマネと呼ばれる園で、これから起こることを知った上で、天の父に祈られました。

「ゲツセマネ」とは、「オリーブを搾る所」という意味です。キリストは「苦しみもだえて…切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と聖書は語ります(ルカ22:44)。この園の名は、イエスが私たちのために、いかに苦しんで祈られたかを象徴します。

神のひとり子は苦しみ死なれて「世の罪」を取り除き(ヨハ1:29)、壊れていた神と人との関係を修復してくださいました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られているとおりです(イザ53:4-5)。

私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。

父なる神さま、神のひとり子が私のために忍ばれたことを 理解できるように助けてください。私の罪のために、そして、 私を助けるために御子を砕かれた神の愛の深さを 知ることができますように。

かくて我は癒えたり 罪は我を去りたり (聖歌437番)

オリーブ搾りの石

聖書のみことば:マルコ14:32-39

ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」—マルコ14:32

ガリラヤ湖畔のカペナウムの村を訪れると、古いオリーブ搾りの石を見学することができます。玄武岩で掘られたこの石は、二つの部分、土台の臼とぐるぐる回す輪から成り立っています。臼は大きくて丸く、内側が削り取られて桶のようにくぼんでいます。このくぼみにオリーブの実を入れ、その上に重い石の輪を転がして、油を搾ります。

イエスは死の前夜、オリーブ山に上り、エルサレムの町を眺められました。そして、ゲツセマネと呼ばれる園で、これから起こることを知った上で、天の父に祈られました。

「ゲツセマネ」とは、「オリーブを搾る所」という意味です。キリストは「苦しみもだえて…切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と聖書は語ります(ルカ22:44)。この園の名は、イエスが私たちのために、いかに苦しんで祈られたかを象徴します。

神のひとり子は苦しみ死なれて「世の罪」を取り除き(ヨハ1:29)、壊れていた神と人との関係を修復してくださいました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られているとおりです(イザ53:4-5)。

私たちは心から、主イエスに感謝と礼拝をささげます。Bill Crowder

父なる神さま、神のひとり子が私のために忍ばれたことを理解できるように助けてください。私の罪のために、そして、私を助けるために御子を砕かれた神の愛の深さを知ることができますように。

永遠のいのちは受け取る準備の出来ている人に無料で提供される贈り物だ。

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最も偉大な救いの使命

大嵐によって、1952年2月18日、SSペンドルトン号はマサチューセッツの沖合、約16キロの海上で真っ二つに割れ、乗組員40人以上は暴風雨の中、沈んでいく船の船尾に取り残されました。この一報がチャタムの沿岸警備隊に届くと、一等水兵のバーニー・ウェバーは、3人の仲間と救助艇に乗り込み、不可能と目される救出に向かい、32人の乗員たちを助けました。彼らの勇敢な行動は、米国沿岸救助隊史上最大の救出で、2016年公開の映画「ザ・ブリザード」の題材になりました。

本当の愛のしるしーその五

本当の愛は「すべてを信じます。」

この説明から受ける第一印象は、愛する人は単純でだまされやすいというものです。しかし、パウロの考えは違います。また、疑わしい言動をいつも好意的に理解してあげなさいというわけでもありません。愛情深い教師やコーチ、カウンセラーや友人は、真相を突き止めるためにむしろ疑い深くなるべきです。

パウロは、愛しているなら相手の言うことを盲目的に信じなさい、とは言っていません。そうではなく、信じることと愛することには喜ばしい基本的な関係があると言っているのです。本当の愛は、神を信じることからエネルギーを得ています。コリント人への手紙第一13章は、この真理を教えてくれます。神が語られるすべて、つまり、神、そして、私自身や私と他者について神がお語りになる「すべて」を信じる、という信仰の上に、本当の愛が育まれていくのです。

もし、神の愛を疑うことがあるならば、私たちはお互いに愛し合う動機を失います。もし、神が寛容で親切であることを疑うならば、お互いに寛容であり親切であることは難しいでしょう。もし、神が生活の必要を満たしてくださることを疑うならば、人に気前良くしようとは思わないでしょう。

キリストのように愛することを理解するために、「愛はすべてを信じる」という真理は、大切です。本当の愛は、信仰の上に立脚し、そこに根を下ろしています。信仰は聖書に記された神のみことばに立脚し、そこに根を下ろしているのです。

神への信仰がなければ、愛はあきらめて死んでしまいます。神が語られた「すべて」を信じつづけないかぎり、私たちの愛は、人生における侮辱や拒絶、そして失望を生き抜くことができません。神のみことばの上に私たちの愛の基礎を据えないかぎり、愛は敗北してしまいます。神を信頼してこそ、愛は強くありつづけるのです。

本当の愛は「すべてを期待します。」

これは前文から自然につづくものです。神のみことばと神の御計画を信頼して生きるなら、当然、すべてを期待することができます。神の恵みを信頼するとは、人間が失敗しても、それで終わりではないと信じることです。本当の愛が「期待する」理由は、神が人の人生に働きかけられるからです。

パウロは、無分別に何でも信じなさいとは言っていませんが、聖書の神を信じる人たちだけが、愛することと期待することの健全な土台を持っていると言っています。

詩篇の作者は、「私の望み、それはあなたです。」(詩篇39:7)と神に語りました。パウロは、「希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:5)と言っています。また、ペテロは、次のように記しています。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(Iペテロ1:3)

これが愛の力です。愛のエネルギー源は、移ろいやすい感情や時々の状況ではなく、神に対する深い信頼と大きな希望にあります。本当の愛は「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)によって、いつも新しくされながら、人生を前向きに生きています。

本当の愛は「すべてを耐え忍びます。」

本当の愛が、正しいことを信じ、正しい希望を持つという前提で、パウロは「愛はすべてを耐え忍ぶ」と言っています。愛についての話を締めくくるために、「耐え忍ぶ」という単語が選ばれましたが、これは13章4節の「寛容」と同じ意味を持っています。

本当の愛を説明するために、パウロはこのふたつの単語の違いを上手に用いています。

4節の「寛容」は長く耐えるという意味で、自分を迫害する人さえ恨まずに耐え忍ぶということが焦点になっています。一方、「すべてを耐え忍ぶ」というときに強調していることは、人生のいろいろな状況に対してどう応答すべきかという点です。愛はあきらめません。途中で投げ出したり、逃げ出したりしません。「すべてを耐え忍び」、最後まで我慢します。

決して忘れることのできない光景があります。それは、1984年のロサンゼルス・オリンピックの女子マラソンを走ったスイス人選手の光景です。他の選手たちがゴールに入り、かなり長い時間が経過してから、この選手は競技場によろめきながら入って来ました。立っているのがやっとという状態で、歩いたり走ったりすることなど不可能のように見えました。しかし、ゴールするにはトラックを一周しなければなりません。私は、限界に達し、今にも倒れそうなこの選手の姿を見つめていた自分を思い出します。同時に、そこにいた観客が総立ちで、何としても完走するようにと、彼女を応援したことも覚えています。最後の直線コースにさしかかったとき、彼女のコーチがすぐ横を歩きだしました。失格にならないように、彼女にさわらないように注意深く歩きました。ついに、ゴールラインを越えると、彼女はコーチの腕の中にくずれ落ちました。ほとんど無意識の状態でした。

何という素晴らしい忍耐の姿でしょう。こういう忍耐こそ、コリント人への手紙第一13章が語る愛のしるしです。本当の愛は、耐え忍びます。苦しみに遭ってもあきらめず、耐え忍びます。ゴールすることには大きな価値があると知っているからです。

どこに愛を見つけることができますか?

もしあなたが、「どこに本当の愛を見つけることができますか。」と心から尋ねているのなら、良い知らせがあります。あなたは、すでに愛されています。聖書のもっとも有名な一節はこう語ります。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

信じる人たちに対して、キリストは神の愛の広さを述べられました。弟子たちに、次のように言われました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31~33)

人を愛することにはリスクが伴いますが、このように愛されているなら自分の立場は安全だと信じて、リスクを顧みることなく愛することができます。

あなたは、自分を愛してくださるキリストに出会いましたか。このお方と知り合い、このお方の愛を受け入れるために、第一歩を踏み出しましたか。キリストに自分をゆだねる決心をしましたか。聖書は、あなたの罪のためにキリストは十字架で死なれた、と語ります。このことを信じますか。

ここが出発点です。自分の罪を自覚し、キリストが自分の人生にとって必要不可欠だということを理解しましょう。キリストは失われた人を捜して救うために、この世に来られました(ルカ19:10)。このキリストに、神の愛を見出します。そして、このキリストに、パウロが語る本当の愛を実践する人生を見ます。キリストは、単に高い道徳基準を目指して生きるようにと私たちに促しておられるのではありません。むしろ、私たちの人生の中にご自身を現わそうと、私たちを招いておられるのです。