私の味方
小柄な体操選手のギャビー・ダグラスは、ロンドン・オリンピックでふたつの金メダルを獲得したときの記者会見で、「神は私を決して見捨てず、いつも私の味方です」と言いました。
誠に申し訳ありません
ニュースは、スポーツ選手が飲酒運転で検挙されたり、政治家が破廉恥な行為を暴露されたりなどという有名人の不祥事が起こると、その事件の内容と本人の謝罪会見などをいち早く報じます。神妙な顔つきで「誠に申し訳ありません」と言っているのを聞いても、本人の心の中は神だけにしか分かりません。本当に反省しているのか、運悪く捕まってしまったと思っているのか、いったいどちらだろうと思ってしまうこともあります。
根を下ろす
我が家の庭の一角は、どうも活気がありません。ていねいに水をやっても、そこだけは芝がまばらです。ある日、この場所にシャベルを突き刺して、その原因を突き止めました。地表のすぐ下に、10センチほどの砂利石の層があったからです。それを取り除き、良質な土を入れました。これで、新たに種を蒔くなら芝は根づいてくれるでしょう。
そのお方がイエスだ
マイケル・ブラウンはニューヨーク育ちのユダヤ人で、霊的なことに全く無関心でした。彼の人生は、バンドのドラム奏者であることを中心としていました。そして、薬物と関わっていました。ところが、彼は友人に招かれて教会へ行き、そこに集う人たちの愛と祈りに出会い、魅了されました。しばらくの葛藤の後、マイケルはイエスを自らの救い主として心に迎え入れたのです。
飛ぶ奇跡
蝶は、神の被造物の中で、いちばん美しいもののひとつといえるでしょう。色鮮やかな羽、優美な飛び方、また渡りの行動パターンには驚かされるばかりです。蝶々は、私たちの目を楽しませてくれるだけではありません。神の創造の御業が、どれほどすごいのかという実例をも示してくれます。
水問題
教会堂の建設が始まって、私たち教会員はわくわくしていました。毎週日曜日になると、建設現場に掘られた大きな穴を期待して見ていましたが、工事ははかどっていないようでした。 問題は水でした。水がありすぎる場所と無さすぎる場所があるのです。ひとつは地下水の問題です。会堂予定地の地下に泉が湧き出ていて、この水が適切に外に流れ出すように手当てをしない限り、市から建設許可が下りません。もう一方は水道です。設置が義務づけられているスプリンクラーに十分な水を供給するために、新たな水道管を引き込まなければならないというのです。これらの規定を満たすために工事が遅れるのは困るのですが、規則に従わなければ、後で大問題が起きるかもしれません。
従うことが、礼拝すること
キリスト教系高校の聖歌隊の引率をして、各地の教会を訪問しました。生徒たちが礼拝賛美で奉仕するのを目の当りにするのは、嬉しい体験です。しかし、教会以外の場所で目撃した彼らの行動は、それ以上に素晴らしいものでした。ある日、生徒たちはガソリンを買うお金のない女性に出会い、即座にカンパを決めました。神の導きだと思ったからです。彼らは数回の給油に相当する額を彼女に差し上げました。
神の栄光を表して
私は子どもの頃から野球が大好きです。中でもデトロイト・タイガースの大ファンで、チームの活躍を楽しんでいます。成績が奮わず、シーズンの折り返し地点で負け越しているというようなときは、随分イライラさせられます。あるとき、これでは精神衛生上良くないと思って、タイガース断ちをしました。4日間、お気に入りチームに全くかかわらないように生活してみたのです。
私はタイガース断ちをしている4日間、慣れ親しんだものを放棄するのがいかに難しいか、しみじみと考えさせられました。しかし、神がそのように求めておられる場合もあります。
例えば、どこかで制限しなければならないと分かっていながら、ついついのめり込んで振り回されているような趣味があるかもしれません(Ⅰコリ6:12参照)。または、神に喜ばれるとは言えないような習慣やクセがあって、神を愛し、神の栄光を表わす生き方をするためには、きっぱりやめるべきだと分かっているのに、それができていないという場合があるかもしれません(Ⅰコリ15:34)。
自分の生活の中に、神との親しい関係を築くことを妨げるものがあると気づいたなら、それをやめましょう。主の助けにすがれば、そうすることができます。神は私たちに脱出の道を備えておられます(Ⅰコリ10:13)。また、御霊に属することをひたすら考えるように(ロマ8:5)、聖霊が力をくださいます。
神が助けてくださるように祈りましょう。主の栄光が照り輝くことを、私たちの中の何かが妨げてしまうことのないようにしましょう。
悪かった
義理の息子とスポーツ観戦に行ったとき、試合だけではなく人間ウォッチングもすることになりました。人間の良い面と悪い面の両方を見せてくれた人がいたからです。その人はスタジアムで迷子になって、自分の席に帰れなくなっていました。それで立って辺りを見回していたのですが、それが私たちの視界をさえぎるような場所でした。座っていた人は試合が見えないので、「どいてくれないか。見えないじゃないか」と言いました。するとその迷子の男性は、「そりゃ気の毒だな」と皮肉たっぷりに答えたのです。そして、もう一度言われると、今度は怒気を含んだ声で同じ言葉を繰り返しました。しばらくすると、その男性はようやくあっちに行きましたが、驚いたことにすぐに戻ってきて、見えないと文句を言った男性に、「さっきは悪かったな。実は席が見つからなくてイライラしていたんだ」と言ったのです。ふたりは握手をして、この件は友好的に片付きました。
彼らのやり取りを見て、私は考えさせられました。日々の生活の中で、自分の思うとおりにならなくてイライラし、キリスト者として恥ずかしい言動をしたことがあるかもしれません。もしそうならば、私たちは失礼をした相手に謝る勇気をくださいと、神に願わなければなりません。イエスによると、そうするか否かで、私たちの礼拝が受け入れられるかどうかが決まるのです(マタ5:23-24)。
和解を優先事項にしているなら、私たちは、神に栄誉を帰しています。天の父との交わりを十分に楽しむことができるのは、和解した後のことです。