望みをつなぐ錨
私はカナダのオンタリオ州ライス湖で、ポンツーンボートという釣り用の小舟に乗って、ブルーギル釣りをしていました。フランクとテッドも一緒でした。その日、魚の食いつきは最高でした。私たちは、忙しく餌をつけては釣り上げる、というのを繰り返しましたが、少しずつ手応えが悪くなっていると感じました。そしてその理由が、ボートが元々のポイントから動いているためだと気づきました。私たちの小舟は、錨(いかり)がしっかりきかずに湖底を滑り、強い風にあおられて流されていました。私たちは錨を引き上げて元のポイントへ戻り、再び錨をおろしました。ところが、また流され、三度試した後、あきらめて岸へ戻りました。錨を固定できなかったのです。
痛みに負けず
野球殿堂入りを果たした捕手のゲーリー・カーター(1954-2012)はクリスチャンでした。19年間の現役生活は、信仰から力や忍耐を得て頑張った戦いの日々でした。2012年、カーター選手が57歳の若さで脳腫瘍により亡くなると、ウォール・ストリート・ジャーナル紙の記者アンドリュー・クラバンが彼を追悼し、カーター選手が自分の人生に与えた影響について書きました。
イヌワシ
息子のマークと一緒にワイオミング州のクライド・ピーターソン牧場を出て、ミシガン州の自宅に戻る途中のことです。はるか向こうの険しい渓谷の淵に立つ木に、一羽の大きな鳥が止まっていました。近づいていくと、その鳥はイヌワシでした。そのイヌワシは、木から飛び立つと渓谷の上を滑空しました。拡げた大きな羽が、朝日に映えて金色に輝き揺らめいていました。息を呑むような壮麗さでした。私たちはその勇壮な姿を目の当たりにし、神の偉大な創造の力に畏怖の念をいだくと同時に、このような体験をさせていただけたのは何という光栄だろうと思いました。
神の被造物は、神の奇しいみわざを見させてくれます(詩145:5)。静まってこのみわざを思うなら、私たちは被造物に映し出される神の品性に感動するでしょう。神を畏れる気持ちがわき起こるに違いありません。
イヌワシの姿は、全能の神の素晴らしい創造の物語を教えてくれました。軽やかに飛びながらさえずる小鳥たちや、戯れて跳ね回る鹿の親子、寄せては返す波、繊細で可愛い千日紅や矢車菊なども神の被造物です。全く思いがけないときや、人里離れた場所でも、神はご自分の栄光を輝かせて、私たちにご自分を現してくださいます。このように、創造の神秘にはからずも巡り合ったなら、それは「神の奇しいわざに思いを巡らす」(5節)絶好のチャンスです。
単純にしよう
アメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンは、この国の憲法の起草に尽力しました。彼は、「読めないほど膨大であったり、ごちゃごちゃしていて理解しづらい」法律を作ってはいけないと警告しました。私は役所に提出する記入用紙を読みながら、お役人たちはマディソン大統領の言葉にもう少しきちんと耳を傾けてほしいと思いました。
福音を人に伝えるとき、ことを必要以上に複雑化してしまうことがあります。うれしいことに聖書は、救いの良き知らせを明瞭で平易なことばで伝えています。イエスは、学識あるパリサイ人のニコデモに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と語られました(ヨハ3:16)。また後に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました(14:6)。使徒パウロは、どうしたら救われるのか、と尋ねたピリピの牢獄の看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と端的に語りました(使16:31)。
神の麗しいラブストーリーは単純です。神は、私たちを罪と死から救い出すために、ご自分のひとり子を遣わされました。子どもでさえ理解できる、素晴らしい話です。
差し出す
ずいぶん前のことになりますが、ある若者に車を貸してもらえないかと頼まれたことがあります。初めはためらいました。自分たちの車だし、それがないと困ります。けれども、すぐに貸すべきだと確信しました。他の人を助けるように、神が望んでおられたからです。それで、車の鍵をわたすと、彼は40キロ離れた教会まで運転していって、そこで中高生向けの伝道集会を開きました。その集会は祝福され、10代の若い人たちが救われました。
神の御子イエスは弟子たちに、「それをほどいて、引いて来なさい」と、他人のロバを連れてくるように言われました(マコ11:2)。もしも何か言われたら、「主がお入用なのです」と言うように指示されました。そうすれば、それを連れて行けることになっていたのです。そのロバは、私たちが「しゅろの日曜日」と呼ぶ日、キリストをエルサレムに運ぶために使われました。
ここに目を留めるべき教訓があります。私たちにはそれぞれ、大切にしているものがあります。それを手放すことなど絶対にあり得ないと思うものもあるでしょう。それは、新しい車とかお気に入りのコートといった持ち物かもしれませんし、たまの休日や自由な時間かもしれません。それが何であったとしても、あなたは誰の目から見てもそれを必要としている人のために、自ら進んで差し出せますか。
もし、聖霊が促されていると気づいたなら、ロバの持ち主がそうしたように、あなたの持ち物や時間を手放しましょう。そうすれば、神の栄光がふさわしく現われるでしょう。
イエスのチーム
オークランド・アスレチックスは2001年のシーズン後、3人の主力選手を失いましたが、資金不足で大型補強ができませんでした。そこでゼネラルマネージャーのビリー・ビーンは、統計データを利用して選手を集めました。この選手たちは他球団で「全盛期を過ぎた」とか「技術不足」と判断された、知名度の低い人たちです。ところが、この落ちこぼれ軍団は20連勝を含む103勝を上げ、2002年の地区優勝を果たしました。
この事実で思い出すのは、イエスが弟子を選ばれたときのことです。イエスは荒くれガリラヤ人漁師、熱心党員、さらには、レビ(マタイ)という嫌われ者の取税人をご自分のチームに選ばれました。これは、「神は…強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Iコリ1:27)という聖書のみことばを思い出させます。神はこれらの献身的な人たち(ユダを除く)を用いて、ある動きをスタートさせられました。それは世界に劇的な影響を与え、世の中を全く違ったものにしていきました。
私たちは、この教えから学ぶことができます。私たちは、人気、影響力、財力のある人を求め、地位の低い人や肉体的に劣る人を軽視しがちです。
しかし、イエスはすべての人を平等に扱われ、世の中で認められていない人たちも自分のチームに加えられました。私たちもまた聖霊と導きによって、すべての人を平等に見ることができます。
動いている教会
金婚式の記念に妻のシャーリーと、ノルウェーのフィヨルドめぐりのクルーズに出かけました。船は北上しながら、さまざまな町や村に立ち寄りました。私たち はそこで、いろいろな教会を訪ねました。その中に12世紀に建てられた教会がありましたが、ガイドは「今でも動いている教会ですよ」と誇らしげに案内しま した。私は、「どういう意味ですか」と尋ねると、彼女は次のように答えました。ノルウエーでは国教の時代、牧師は国から任命されて赴任し、給与を受け取っ ていましたが、教会の人々はまったく礼拝に行かない、ということがめずらしくありませんでした。ところが、この教会の信徒たちは千年にわたって忠実に礼拝 し、活発に主に仕えてきたといいます。
私はすぐに、黙示録2章と3章に書かれている七つの教会を思い浮かべました。主イエスは、「わたしは、あなたの行いを知っている」(黙2:2、9、13、19; 3:1、8、15)とおっしゃいました。
使徒パウロもまた「信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐」(Ⅰテサ1:3)について、テサロニケの教会を褒めています。
私が集っている教会も130年以上、忠実に聖書のメッセージを語り、教会員の世話をし、地域に仕えてきました。まさに「動いている教会」です。ともに成長し、ともに主に仕えることができる地域の教会の一員になることができるなら、それは何と素晴らしい特権でしょう。