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David H. Roper

David H. Roper

デービッド・ローパー氏は、30年余りの牧会経験の持ち主で、今はアイダホ・マウンテン・ミニストリーズの代表者です。これは、牧師夫婦を励ますために開かれたリトリート・センターです。ローパー氏は、妻キャロリンと川辺で過ごすことと釣りが趣味だといいます。

寄稿一覧 David H. Roper

計画的な欠陥

エルサレムの東に湧く泉があります。その泉は、古代エルサレムの唯一の水源で城壁の外にありました。それがこの都市の最大の弱点でした。その城壁がいかに堅固でも、その泉がせき止められたなら、エルサレムは降伏するしかありません。城壁の外の泉とは、そういうことを意味していました。

未知の道

よく5年計画について尋ねられますが、先のことは分からないのにどうやって計画するのでしょう。スタンフォード大学に学生をケアする牧師として採用された昔を思い出します。私は大学で体育教育を専攻し、楽しく学びましたが、その分野で学者の実績を残したわけではありません。プレッシャーを感じ、暗中模索する日々でした。祈りつつ学内を歩き回っていたある日、知らない学生に、彼の友好会で聖書の学びを導いて欲しいと頼まれました。これが始まりでした。

そっちは滑りやすい

スキーの初心者だった時、こんな経験をしました。ある日、息子の ジョシュについて、なだらかに見える斜面を滑っていました。私の目は息子の背中を追っていたので、彼が急斜面に入ったことに一瞬気づきませんでした。そして、突然コントロールを失い、猛スピードで斜面を下りました。最後はもちろん、雪の中に突っ込みました。

パンと魚

日曜学校から戻った少年は興奮しながら、今日は一日中、魚とパンの話だったと言いました。もちろん、彼が言いたかったのは、イエスにパンと魚をささげた幼い少年のことです。

助けを求めるとき

聖書のみことば:詩篇142

祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。―ピリピ4:6

信仰を持って長くたちますが、まだ祈りを完全には理解していません。私にとって、祈りは神秘に満ちています。しかし、ひとつ分かっていることは、切羽詰ったとき、祈りは自然に心の奥底から湧き上がり、口をついて出るということです。

気が動転したとき、怖いと感じたとき、もう限界だと思ったとき、自分の小さな幸せが奪われそうになったとき、または大きなチャレンジを受けたときなど、私たちは反射的に、そして無意識に祈ります。そんなときは普通、「主よ、助けてください!」と叫び求めるのです。

神学者のユージーン・ピーターソンは「祈りの言葉は、困難な試練の中で錬られる。自分の力ではどうにもならず助けを求めるとき、自分の置かれた状況から抜け出したいと思うとき、自分が嫌で変わりたいと思うとき、私たちは飾らない素朴な言葉を使い、この言葉が祈りの基礎になる」と記しました。

祈りは困った出来事から始まり、続いていきます。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ、常に何らかの問題を抱えているからです。祈りは特別な準備を必要とせず、正しい用語というものもありません。また、定められた作法もありません。祈りは、私たちが必要に迫られるところから始まり、やがて私たちの習慣になっていきます、私たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、人生のあらゆることに対して祈るようになります(ピリ4:6)。

どんなことでも神に祈ることができるのは、何と素晴らしい特権でしょう。

神の助けは祈ればそこにある。

楽しんで戦う

息子のブライアンは、高校のバスケットボール部のコーチです。ワシントン州のトーナメントを勝ち進んだ年、町の人は良かれと思って「今年は優勝ね」などと声を掛けてくれました。ところが、選手もコーチも、それをプレッシャーに感じたのです。そこでブライアンは、楽しんで戦うことをモットーにしました。

来て、受けなさい

裏のぶどう畑の柵越しに外をのぞくと、隣接する公園の周りを人々が走ったり、歩いたりしているのが見えました。若くて元気だったときは、自分もああだったと思うと、急に気分が塞ぎました。後で聖書を読んでいると「ああ。渇いている者はみな、…出て来い」(イザ55:1)というみことばが目に留まり、私は渇きというものは人生につきものなのだと改めて思いました。どんな良いことやものでさえ、人を完全に満足させることはできません。たとえ、私がヒマラヤのシェルパのような強健な脚を持っていたとしても、別のことが面白くないでしょう。

黄金律

聖書のみことば:マタイ7:7-12

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。―マタイ7:12

自分がしてもらいたいように他の人にしてあげなさいという教えは黄金律で、多くの宗教で語られています。しかしイエスの独特なところは、今日の聖書のみことばの「それで」にあります。イエスはまず、天の御父の寛大さを表されたのです。

「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタ7:11-12)。

私たちはみな、すべきだと分かっていることを実行していません。すなわち、神が私たちを愛してくださったように人を愛していません。しかしイエスは、すべての人の罪のために死ぬことで、完全な愛で道徳的にも立派に生きるということを実践されました。

愛情深く与えてくださる神がおられます。このお方は、御子イエスを通して、ご自分の愛のすべてを啓示するために、ご自身の利益を脇に置いてくださいました。神の寛大さが、自分がしてもらいたいように人にしてあげるという行為の原動力です。クリスチャンは、人を愛し、人に与えます。なぜなら、「神がまず私たちを愛してくださったからです」(Ⅰヨハ4:19)。

天の御父は、神の規範に従って生きるように私たちに求められます。同時に、それを実行するための力と愛もくださいます。私たちはただ、神に求めればよいのです。

私たちは黄金律を暗記したが、次はそれを実践しよう。

ヘマンの正直さ

聖書のみことば:詩篇88

私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。―詩篇88:3

私は詩篇88篇を記したヘマンに感動させられます。彼は、「私のたましいは、悩みに満ち」ていると嘆きました(3節)。彼の人生は苦悩の連続で、苦しむことに疲れ果てていました。彼は人生を振り返って病の苦しみや不運を思いました。周りを見渡せば逆境の只中で誰からも見捨てられたと感じます。どこにも、慰めはありませんでした。「私は…心が乱れています」と彼は訴えました(15節)。彼は見放され(5節)、暗闇におり(6節)、悩み(7、15節)、見捨てられ(14節)ていました。トンネルの向こうに光はなく、彼の悲しみに解決はありません。

私は、ヘマンの正直さにほっとさせられます。悩まないクリスチャンがいるとしたら、なぜだろうと思います。もちろん程度の問題はあって、一日中、自分の悩みばかり話す人と一緒にいたいと思う人はいませんが、苦しんでいるのは自分だけではないと分かるとほっとします。

それに、ヘマンは正直なだけではありません。彼には、揺るがない堅い信仰があります。多くの試練に見舞われても、彼は神にしがみつき、朝も夜も神に叫びました(1、9、13節)。祈ることをやめず、けっしてあきらめませんでした。また、仮に見えなくても、神の真実、神の奇しいわざ、そして神の義(11-12節)が確かであることを、ヘマンは知っていました。

私はヘマンのような人が好きです。しっかり神にしがみついて、祈りをやめてはいけないと、私を励ましてくれるからです。

祈りは何よりも希望を育てる土だ。