避け所の岩
休暇を取って訪れた地は、大きな湖のほとりでした。岸辺を散歩していると、大きな岩が積み重なっている場所がありました。近づいてみると、岩と岩のくぼみの中に、小さな野花が育っています。その場所には、ちょうど良い量の日光と水があるのでしょう。よく根付いて元気そうでした。また、そこは守られた場所です。岩に囲まれているため、強風にやわらかい葉があおられることもありません。
やり残したこと
レオ・プラスは、99歳で東オレゴン大学の卒業証書を手にしました。教育学部で学んでいたのは1930年代でしたが、家計を担うために退学して木材会社に就職しました。79年後、彼は卒業に必要な残りの単位を修得し、自分の人生でやり残した事業を完成させました。
天の故郷
高校時代のある日の午後、親友と2頭の馬で、花咲く野原や木立ちをゆっくりと歩きました。ところが、そろそろ帰ろうかと思って馬の鼻を馬小屋の方向に向けたときのことです。二頭の馬たちは双子のロケットのように、一目散に駆け出しました。私たちの愛馬は、ブラシをかけてもらい、餌をもらえる時刻を知っていて、はやる心を抑えられなかったのでしょう。
クリスチャンにとって、まことの故郷は天国です(ピリ3:20)。それなのに、私たちは自分を「今」、「ここで」という世俗的なものに縛りつけてしまいがちです。私たちは、配偶者や子ども、孫たち、友人、やりがいのある仕事などに喜んで時間や労力を割きます。それらは神がくださったよいものです。けれども神は「上にあるものを求めなさい」と、チャレンジを与えてもおられます(コロ3:1-2)。「上にあるもの」とは、まだ見ぬ天国の恵みです。それは、神が恒久的にご臨在されること(黙22:3-5)、終わりのない休息があること(ヘブ4:9)、また、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ」ことです(Ⅰペテ1:4)。
最近、「信仰が強ければ強いほどに、天国の資産を受け継ぐ望みが強くなる」ということばを読みました。ヘブル人への手紙11章に述べられている旧約聖書の人物は強い信仰の持ち主だったので、その信仰によって、まだ見ぬ神の約束をしっかりと受け取ることができました(ヘブ11:13)。そのような約束のひとつが天国です。神を信じるならば、神は「天の故郷」(16節)に対する望郷の念を与えてくださり、この世への未練が募らないようにしてくださいます。
祈ってください
私たちのバイブルスタディのグループは、あるとき帰国中の宣教師を招いて話をしてもらいました。親族や友人に別れを告げ、身の回りの物をまとめて遠い国に引越すとはどのようなものか、その人は語ってくれました。家族を伴って任地に到着すると、出迎えたのは交通ルールは皆無と思われる危険な道路と、麻薬売買が大盛況という現実でした。言葉の壁は、孤独の苦しみをもたらしました。彼女たち家族は4種類の伝染病に感染しました。長女は、危険な吹き抜けの手すりから落ちて、あやうく命を落とすところでした。私たちは、この家族のために祈っていかなければならないと思いました。
使徒パウロもまた、危険と困難に遭遇した宣教師です。彼は投獄されたり、遭難したり、鞭打たれたりしました。ですから、祈ってほしいと手紙で嘆願しているのは驚くに値しません。彼は、テサロニケのクリスチャンに「主のみことばが…早く広まり、またあがめられますように」(Ⅱテサ3:1)、「ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように」(2節)祈ってほしいと頼んでいます。また、「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」(エペ6:19)祈ってほしいと、別の手紙には書かれています。
あなたは、神の超自然的な介入が必要な宣教師がいることを知っていますか。パウロの「兄弟たちよ、私たちのために祈ってください」(Ⅱテサ3:1)という訴えを思い出しましょう。そして、力ある神の御前に、宣教師のためのとりなしの祈りをささげましょう。
最後まで忠実に
英国のサロモン・キールダー・マラソン大会での出来事です。ある選手が32キロメートル地点まで走ったところで、コースをはずれてバスに乗りました。そしてゴール近くの森まで行くと、そこからレースに戻り、なんと3位に入賞しました。その選手は後に大会関係者に尋問され、疲れたからやったと答えたそうです。
キリストを信じる信仰というレースを走る私たちには、疲れきった運動選手の気持ちが痛いほど分かります。ヘブル人への手紙は、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と、私たちを叱咤激励します(ヘブ12:1)。忍耐して走るためには、立ちふさがる罪を避け、後ろに引き戻そうとする重荷を捨てなければなりません。迫害の中を前進しなくてはならない場合さえあります(Ⅱテモ3:12)。
聖書は、疲れきって気力が失せ果ててしまわないように(ヘブ12:3)、キリストに焦点を合わせて集中しなさいと、私たちに促しています。私たちが、自分の問題に夢中になるのでなく、もっと主イエスに注意を払うならば、私たちは伴走してくださっているイエスに気づきます。このお方は、私たちがつまずく時には支え(Ⅱコリ12:9)、手本を示しながら励ましてくださいます(Ⅰペテ2:21-24)。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブ12:2)ようにするなら、私たちは力の源にしっかりとつながっていることができます。そして、主に忠実に人生のレースを走り切ることができます。
監視カメラ
近所の警察署が、信号無視のドライバーを写すために監視カメラを取り付けました。違反者のところには後日、赤信号を横断する車の写真と一緒に違反切符が郵送されてきます。この写真は、交通違反の動かぬ証拠です。
時として、神は監視カメラと同じだと感じることがあります。神は天におられて、私たちが悪いことをする現場を押さえようと見張っておられると思ってしまいます。確かに、主は私たちの罪を見ておられますが(ヘブ4:13)、同時に、良い行いにも関心をもってくださいます。教会に献金したり、困っている人に金銭的な支援をしたりしたときも、どの程度の犠牲を払ってそうしたかを見ていてくださいます(マコ12:41-44)。誰も知らない個人的な祈りも聞いてくださいますし(マタ6:6)、思うところあって断食するときも、隠れたところにおられる天の父が見られると確信して(18節)、辛さを見せずに通常の生活を続けることができます。
主がすべてを見ておられることが分かると、世間の目が気にならなくなります。正しいことをするなら、人に誉められようが誉められまいが関係ありません。罪を犯してしまったときも、神に告白して赦していただき、被害者に対してもすべきことをきちんとするなら、周りの人に何と言われるだろうかと思い悩む必要はありません。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴16:9)というみことばをいただき、平安に過ごしましょう。
水仙の花畑で
初春の花が咲いている庭で、5歳になる息子が、水仙が咲いている一角に座り込んでいました。彼は何ヶ月も前に散った植物の残骸を見つけて、「ママ。僕は死んだものを見るとイースターを思い出すよ。だってイエスさまも十字架で死んだんでしょ」と言いました。私は、「ママはね、そこの水仙のように元気に生きているものを見ると、イエスさまの復活を思い出すわ」と返答しました。
イエスが墓からよみがえったことを確信させる話のひとつが、ルカの福音書に収められています。イエスが処刑されて3日後、ふたりの人がエマオに向かっていました。イエスは、この人たちと一緒に旅をされ、食事もされました。それどころか、旧約聖書の預言を教えたりもされたのです(ルカ24:15-27)。ふたりの旅人は、イエスが死から復活されたことを悟ります。そしてエルサレムに戻り、「ほんとうに主はよみがえった」と弟子たちに告げました(34節)。
もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの信仰はむなしいものです。私たちは今もなお、自分の罪の中にいるのです(Ⅰコリ15:17)。しかし、聖書は、私たちが義と認められるために、イエスはよみがえられたと語っています(ロマ4:25)。
今日、私たちは神と正しい関係の中にいます。それは、イエスが生きておられるからです。
すべてのことに感謝する
私の娘は重いピーナツアレルギーで、ほんの少し口に入れただけでも生命にかかわります。そこで私たちは、食品の包装ラベルを綿密に調べ、どこに行くときも、アレルギー処方薬が入った注射器を持参します。外食をするときは、前もってレストランに電話し、メニューの品目についてしつこく尋ねます。
このように用心していても、娘の安全が守られる保証はありません。私は、こういう状況に感謝することはなかなかできません。しかし、神のみことばは「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ5:18)と、チャレンジを与えます。神は私たちに感謝の心で祈って欲しいと語られるのです。それは、未来が不確かでも、悲嘆に暮れることが起こっても、家計が苦しくてもです。言い訳はできません。
苦境の中で感謝するのは容易ではありませんが、不可能でもありません。ダニエルは自分の身の危険を知りながら、「神の前に祈り、感謝して」いました(ダニ6:10)。ヨナは魚の中で、「感謝の声をあげて」叫びました(ヨナ2:9)。ふたりの例、さらには、神はすべてのことを働かせて益とし、ご栄光を現されるという聖書の約束(ロマ8:28)は、すべてに感謝できるように、私たちを鼓舞してくれます。
いつも受け入れられている
投資家ウォーレン・バフェットは世界の大富豪のひとりですが、19歳のとき、ハーバード大学ビジネススクールの受験に失敗しました。面接試験に失敗すると、父親の反応も含めて、非常に不安だったといいます。バフェットは自分の人生を振り返り、「当時、私を打ちのめした出来事はすべて、結局は良い結果につながっていきました」と述べています。
受け入れてもらえないのは、当然、辛いことですが、神の召しを成し遂げようと前進することをはばむものではありません。イエスの故郷の住民は、イエスが救い主であることを否定しました(ヨハ1:11)。イエスの弟子たちのうちの多くは、あるときを境に、主から離れていきました(6:66)。人々に受け入れられないということは、御子イエスに対する神のご計画でしたが、それでも宣教し続けるということもまた、御子に対するご計画でした。この世で拒絶されることに耐え、カルバリでは御父に見捨てられることを知りながら(マタ27:46)、イエスは人々の病を癒やし、悪霊を追い出し、民衆に福音を語り続けました。十字架に架かられる前にイエスは「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げ」と言われました(ヨハ17:4)。
神に召されて働きを続けることが、今、誰かの拒絶にあって難しくなっているなら、どうかあきらめないでください。イエスは分かっておられます。また、イエスのもとに来るなら、いつでも、誰でも、決して拒絶されないことを忘れないでください(ヨハ6:37)。