情報だけでなく
人の行動パターンを変えるには、どうすればよいのでしょう。デイヴィッド・ブルックスは自著の「人生の科学:『無意識』があなたの一生を決める」で次のように語っています。「ある専門家たちは、その行為の末路を伝えることだと言う。例えば、『たばこを吸うと癌になるかもしれない。不倫は家庭を壊してしまう。嘘をつけば信用を失くす』などだ。愚かな行為の結末を知れば、人は、その行為をしなくなるだろうと推察しているのだ。確かに、善悪に関する判断をしたり、自制心を働かせたりするのに、理由づけや意志の力は重要だ。しかし、この方法が有効でなかったことは証明済みだ。」言い換えれば、単なる情報は、人の行動パターンを変革させるためには力不足だということです。
靴ひもを結ぶ
ひとりの行動がグループ全体の運命を左右することがあります。ジャーナリストのセバスチャン・ユンガーは、従軍記者として部隊に同行取材をしたとき、そのことを認識したといいます。ひとりの兵士が、靴ひもが解けて地面を引きずっている、と叱り飛ばされました。それは見た目にだらしないからではありません。靴ひもが解けていることで、部隊全体を危険にさらすかもしれないからです。そんな格好で決定的な瞬間に転ばないと、どうして言えるでしょう。ユンガーは、これは自分のことだけではすまないのだと気づきました。
旧約聖書のアカンの話は、罪の影響は決して個人にとどまらないことを教えています。エリコの戦いで大勝利を収めた後、攻め取った町と戦利品をどうすべきか、神はヨシュアを通してはっきりと指示されました(ヨシ6:18)。人々は汚れたものから身をさけ、銀や金はすべて「主の宝物倉」に持ち込まなければなりませんでした(18-19節)。しかし、その命令は守られませんでした(7:1)。けれども、イスラエルの民全員が罪を犯したのではありません。たったひとり、アカンという人物だけが罪を犯したのです。ところが、彼の行為のために、すべてのイスラエル人が影響を受け、神の御名がはずかしめられました。
私たちクリスチャンは互いに結び合わされた関係で、各々の行為は、キリストのからだ全体に波及し、また、神の御名がたたえられるか否かを左右します。「靴ひも」はしっかり結びましょう。そうすれば、個人として、またキリストのからだ全体として、神に栄誉をもたらすことができます。その栄誉は、神が受けるべきものなのですから。
語り伝えよ
映画制作者のジョージ・ルーカスは、どのように人々の記憶に残っていたいか、とワイアード誌のインタビューで尋ねられ、次のように語りました。「人々は私を映画制作者として覚えていてくれるでしょう。…願わくは、私が制作した映画のいくつかは、その時代においてもなお、今日的な意味を持っていて欲しいと思います。…子育てをしているときには、子どもに色々なことを教えなければなりません。さもなければ、子どもは苦い体験を通して思い知ることになります。ですから、『昔話(寓話)』を次の世代に受け入れられるような形に作り変えて、代々語り継がなくてはならないのです。私は『昔話(寓話)』以上のことはしていないと思います。それはこれからも語り続けられる必要があると思います。」
詩篇78篇の作者は、神の偉業が忘れられ、後の世代が何も知らなくなってしまう可能性に気づいていました。それで、神の救いの御業を飽くことなく子々孫々まで語り伝えようと、神の民に呼びかけました(4節)。その目的は単なる歴史の勉強ではありません。むしろ、自分たちの信仰に常にいのちを吹き込み、主なる神に対する従順と希望を持ち続けることです。不信仰に陥って神に背いた先祖たちの過ちを、後の世代が繰り返さないようにするためです(8節)。
私たちの人生に神の大きな力とあわれみが現れたのですから、私たちは忠実に神の物語を語り告げたいと願います。その結果として、次の世代の人たちが信仰を奮い立たせ、忠実に従うことができますように。
世界は御父のもの
アマンダはカリフォルニア州サン・ディエゴ市にあるキリスト教系の大学の2回生でした。彼女は、クリスチャンが地球環境保全に果たすべき役割について、再考させられました。今までは、自分が救われていることと地球環境に配慮することに関連性があると意識していなかったのですが、クリスチャンに果たすべき役割があるとチャレンジを受けたのです。特に、世界中の困窮している人たちに福音を届けるということと、地球環境の関連を考えさせられるうちに、彼女は大きく成長し、変わっていきました。
クリスチャンには、神が創られた美しい世界をみこころにそって管理し、そこに住む人たちが幸せに暮らせるように配慮する責任があります。この責任を果たすことによって、私たちは自らが神を敬っていることを示します。この責任は、次のふたつの聖書の原則に基づいています。
初めの原則は、「地は神のもの」だということです(詩24:1-2)。詩篇の作者は、万物の創造主である神を賛美します。天と地、そしてそこにあるすべてのものは神のものです。神が創造し、神が君臨し(93:1-2)、神がそれらをいつくしまれます(マタ6:26-30)。第2の原則は、世界が健全に営まれるように守り導く責任を、神が私たちに授けたということです(創1:26-28)。私たちは、自然も人も尊んで守らなければなりません(レビ25:2-5、11節、箴12:10、ロマ15:2)。
地球環境は、私たちの御父のものです。それを尊重し、その中に住む人々に心を配ることによって、自分がどれほど神を愛しているか、神に示していきましょう。
価値あるものへ
アップル社の共同設立者であるスティーブ・ジョブズは、ガンと闘う中で次のように語りました。「もうすぐ死ぬという意識は、今までに巡り合った何よりも重要なツールだ。人生の大きな決断を助けてくれる。ほとんどすべてのもの、つまり、人の期待、自尊心、恥や失敗に対する恐れなどは、死を前にして剥がれ落ちていき、自分にとって本当に大切なものだけが残る。」彼の苦しみは、彼の選択に用いられました。
使徒ペテロが手紙に書いていることは、それとは対照的です。彼は、今の苦しみは自らの人生に永遠の価値を持たせるために用いなさい、と述べています。イエスの苦しみと死を知って信仰にいのちが吹き込まれ、イエスの御名を信じているがゆえの戦いや迫害を引き受けることができるように願っていたのです。手紙の読者たちはイエスを愛したので、苦しむことが当たり前になっていくでしょう。イエスの苦しみは、罪深い情熱を捨て去って、神のみこころに従順になる動機づけとして用意されていたのです(Ⅰペテ4:1-2)。人生に永遠の価値を持たせるには、はかない楽しみにふけるのをやめ、神を喜ばせることのために、自分の人生を使い果たさなければなりません。
イエスが私の罪を赦すために苦しみ、死なれたことを意識することこそが、今日、敬虔な人生を選択しようと自らを奮い立たせるために重要です。これを意識することこそが、自分の人生に永遠の価値を持たせるために大切なのです。
待ちなさい
サンフランシスコで車の渋滞に巻き込まれた男性が、しびれを切らして隣の車線に移りました。そして、停車している車の列を追い越して行こうとしました。ところが、この車線は工事中で新しいセメントが敷かれたばかりです。男性のポルシェ911は、セメントの泥にはまって動かなくなってしまいました。彼の短気は非常に高くついたのです。
聖書にも、忍耐できなかったために高い代償を払った王の話があります。イスラエルの王サウルは、ペリシテ人との戦いを目前に控えて、神の祝福を得ようと思いました。ところが、いけにえをささげるはずのサムエルが予定どおりに到着しません。サウルは忍耐することができず、しびれを切らせて神の命令に背いてしまいました(Ⅰサム13:8-9、13)。遅れに我慢できない性格が、サウルを自分は律法以上の者だと勘違いさせました。そして、祭司にしか許されていない奉仕を行ったのです。神の教えに従順でなくても何とかなると思ったのかもしれませんが、それは間違いでした。
到着したサムエルは、サウルの不従順を批判し、その罪のために王国を失うだろうと預言しました(13-14節)。サウルは、神のご計画が実現されていくのを忍耐して待つということを拒絶して急ぎ足で行動し、大きな失敗を犯しました(箴19:2参照)。サウルの忍耐の無さは、彼の不信仰を顕著に現していたのです。
神のみこころの実現を忍耐強く待つなら、主がともにいて導いておられることは明らかにされてきます。
行ないによって
ある牧師が夜、教会に向かって歩いていると、銃を持った強盗に襲われました。命が惜しければ金を出せと言われて、財布を差し出そうとポケットに手を入れたとき、強盗は、つめ襟の牧師服に気づいて、「あんた牧師だったのか。だったら金はいらない。行ってくれ」と言いました。牧師は、強盗の思いがけない態度に驚いて、チョコバーを1本差し出しました。すると、「いいや、結構だ。俺は受難節のあいだは、甘い物を絶つことにしている」と言ったのです。
この男は受難節には何かを犠牲にするということで甘い物を絶っていましたが、強盗で暮らしを立てているのですから、それが彼の本性です。神を畏れているとは言えません。
箴言の著者によれば、その人の行いが、その人の人格を計る最も正確な指標です。「自分は神を敬っている」と言うなら、その人の行動がその言葉と一致していなければなりません(箴20:11)。これは、イエスの時代の宗教指導者にも当てはまることでした。イエスは、パリサイ人を非難されました。自分たちの罪を認めようとせず、見せかけの敬虔に終始していることを暴露されたのです(マタ23:13-36)。
人の外見や言葉は、当てになるとは限りません。人格を判断するには、その人の行動を見るのが一番です。この事実は、私たち全てに当てはまります。
主イエスに従う者は、主に対する愛を口先だけではなくて行動によって表します。神が愛してくださったので、私たちは自分を神にささげます。その献身が、今日、私たちの行動を通して明らかになりますように。
健全な言葉
しばらく前、アメリカン・ミュージック・アワード(アメリカ4大音楽賞のひとつ)の授賞式のさなか、あるエミー賞女優が勇敢にも立ち上がり、退場したことがありました。その理由は、式の司会者、賞の贈呈者、またミュージシャンたちが、次から次へと下品でわいせつなコメントや冗談を連発するので、非常に不愉快で失望したためです。その女優は、自尊心と尊厳がわずかでもある人にとって、あのような式に列席させられるのは侮辱以外の何ものでもないと語りました。
下品で不健全な言葉は、使徒パウロの時代においても問題でした。パウロはエペソのクリスチャンに対し、下品なこと、みだらなこと、そしり、恥ずべきことばを取り除くように、と念を押しました(エペ5:8、コロ3:8)。これらは、過去の生活の言葉であり(Ⅰコリ6:9-11)、イエスによって新しい人生が与えられた今の彼らには、ふさわしくないものでした。新しく再生した者の生き方は、健全な言葉によって特徴づけられるべきです。彼らの良質で健全な言葉は、聞く人に恵みを与えます(エペ4:29)。聖霊は、私たちの口を守り、下品なことを言うと叱ってくださり、人の益になる言葉を使えるように助けてくださいます(ヨハ16:7-13)。
私たちは、自分のすべてをもって、神の栄光を映すように召されています。その中には、口から出る言葉も含まれています。私たちの口から出る言葉が、感謝に満ち溢れていますように。そして、他の人に益を与える言葉で満たされていますように。
あなたが必要
オーケストラのリハーサルをしていた指揮者の話があります。オルガンが旋律を美しく奏で、バイオリンが澄んだ音色を響かせました。トランペットが鳴り渡り、ドラムは雷鳴のように響きます。しかし指揮者は、何かが足りないと気づきました。ピッコロです。ピッコロ奏者は集中していなかったので出遅れ、きちんと演奏していないことに気づかれないようにと願っていました。しかし、指揮者はピッコロ奏者に言いました。「一人ひとりが必要なのです。」
これは基本的に、使徒パウロが、コリント人への手紙第一に記したメッセージと同じです(12:4-7)。「キリストのからだ」において、すべてのクリスチャンは重要な役割を担っています。パウロは様々な御霊の賜物を述べ、それらを用いるのは、身体の様々な器官が全体の益のために働くのと同じだと言いました(8-10節)。コリントのクリスチャンは、それぞれに異なった文化的背景、賜物、性格を持っていたでしょうが、同じ御霊に満たされ、同じキリストのからだに属していました。パウロは、身体には弱い器官や目立たない器官があるということにも言及し、その上で、誰かが別の人以上に必要だということではなく、すべてのクリスチャンに役目が与えられていると教えました。
忘れないでください。イエスは、あなたに重要な役目を与えておられます。兄弟姉妹が立て上げられるために、あなたを用いようとなさっています。