私が発明した
カナダ人のウィラードS.ボイル氏は、デジタルカメラやハッブル望遠鏡に組み込まれた電子センサーの共同発明者で、ノーベル物理学賞を受賞しました。あるとき、彼は新しいデジタルカメラを購入しようと、ノバスコシア州ハリファックスの、とあるカメラ店に行きました。カメラ店の販売員はボイル氏にカメラの精密さを説明しようとしましたが、途中でやめてしまいました。
見捨てられない
ある日、カリッサ・スミスは地元の図書館にいました。可愛い声を出し始めた4ヶ月の娘と一緒です。不意に、年配の男性が「赤ん坊を黙らせろ、さもないとわしが黙らせる」とすごんできました。スミスは毅然(きぜん)と答えました。「機嫌のよい赤ちゃんに腹を立てるとは、ご事情があるのかもしれませんね。けれども、私は娘を無理に黙らせようとは思いませんし、あなたにもそうはさせません。」
感謝する
ミシガン州ランシングでは、冬に晴れることはめったにありません。けれども昨年、澄み切った晴天の日がありました。誰もが、神に感謝しているようでした。私が教会を出たとき、ひとりの男性が声をかけてきました。「本当にいい天気ですね。これは神さまの贈り物ですよ。」ところが私は、「でも、今週後半には、また雪が降るそうですよ」と答えたのです。何と否定的で感謝に乏しい発言でしょう。
使徒パウロは数々の手紙の中で、「感謝の神学」を深めるよう促しています。パウロは、新約聖書で感謝について誰よりも多く記しました。彼の手紙に「感謝」という言葉は49回も用いられ、その記述から、感謝について多くのことを学ぶことができます。
パウロの感謝は人にではなく、常に神に向けられています。人々は神からの贈り物であり、その人たちの愛や信仰、そして成長を、パウロは神に感謝しました(Ⅰコリ1:4、Ⅰテサ1:2)。また、すべての感謝は、イエスの御名によってささげられています(コロ3:15、17)。クリスチャンはすべての事について感謝すべきだとパウロは信じていました。神はすべてを支配されるお方であり、クリスチャンの益のために、すべてを取り仕切っておられるからです(Ⅰテサ5:18)。
自分の周りにある神からの贈り物に意識して目を留め、常に感謝しましょう。神が贈り物をくださったのです。「主よ、感謝します」と言うのは当然です。
パニックか祈りか
修道院のエレベーターに、85歳の女性が3日間閉じ込められてしまいました。幸いなことに、彼女は水差しに入った水とセロリ、そして数粒ののど飴を持って いました。彼女は、エレベーターのドアを開けて携帯電話の電波を得ることができないと分かると、神に祈ることにしました。不安の中でも神を信じ、救出され るときを待ちました。彼女は、CNNのインタビューに答えて言いました。「パニックになるか、祈るかの二者択一でした。」
百万人ものクシュ人の軍が攻撃してきたとき、アサ王もパニックか祈りかという選択を迫られました(Ⅱ歴14章)。彼はこの大軍に対して、恐れおのの くことも、自らの戦略に頼ることもしませんでした。彼は、ただ主に向かって、緊急事態の祈りをささげました。「私たちの神、主よ。私たちを助けてくださ い。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります」と祈りました(11節)。アサは主だけが頼りであることを告白し、助けを求め、主の御 名が守られるようにと訴えました。それは心砕かれた者の必死の祈りでした。主はアサの祈りを聞かれ、アサはクシュ人の軍に勝利しました。
困難な状況に見舞われ立ち向かう力もなく、山積する問題に行き詰まったなら、パニックになるのではなく、神に頼りましょう。神はご自分の民のために戦い、勝利されます。