アメリカ、オーストラリアなどには「パンドラ」というインターネットの音楽ストリーミングサービスがあります。これを用いると、好みの音楽だけが流れる独自のラジオ局を作ることができます。流れている音楽に対して、「お気に入り」、または「気に入らない」マークをクリックして楽曲を評価していくと、やがて自分の好みの曲だけが流れるようになるのです。

残念なことですが、私たちは時として、聖書にも同じようなことをします。気に入った聖書個所だけを人生に適用し、その他の部分は無視します。そうして、お気に入りの「聖書」を作り上げてしまうのです。

詩篇の作者は神のみことばについて、「みことばのすべてはまことです」と語りました(詩119:160)。また使徒パウロは、年若い伝道者のテモテに対し、「聖書はすべて、神の霊感によるもので…有益です」と語りました(Ⅱテモ3:16)。

聖書は、イエスにとっても重要なものでした(マタ5:17-18)。しかし、イエスはその時代の宗教指導者たちとは違う視点で見ていました。例えば、イエスにとって「殺してはならない」は、「兄弟に向かって腹を立てる」(21-22節)と同じレベルのことでした。イエスの姿勢は、神のみことばを自分好みにすることとは懸け離れていました。むしろ、みことばを適用するとき、どんな動機でそうしているのかという、その人の心の状態に目を留めておられました。

神のみことばをもっと全体的に受け止めて大切にするなら、私たちはより深く神を理解するでしょう。そして、神に誉れを帰したいという熱意も大きくなるでしょう。