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Monica La Rose

Monica La Rose

モニカ・ラローズ氏(旧姓ブランズ氏)は、イリノイ州パロス・ハイツにあるトリニティークリスチャン大学で英語学と神学を専攻した後、ミシガン州グランドラピッツにあるカルヴィン神学校で神学修士号を取得しました。2019年10月に、ミュージシャンでありエンジニアでもあるベン・ラローズ氏と結婚しました。ふたりは、家族や友人、そして二匹の猫と過ごす時間を大切にしています。

寄稿一覧 Monica La Rose

ドラゴン地帯

言い伝えによると、中世の地図の端には「ドラゴン地帯」と書かれていたそうです。それは、当時の世界の果てで、待ち伏せている恐ろしい獣の絵が添えられていることもあったそうです。

世界で一番好き

姪のジェンナは3歳で、私をメロメロにさせるしぐさをします。自分の好きなこと、例えば、バナナクリームパイを食べたり、トランポリンやフリスビーで遊んだりする時、大げさに腕を一振りして「これが世界で一番好き!」と宣言します。こんなに大胆に「好き!」と表現したのはいつ頃までだっただろうと、自分の過去に思いを馳せるときさえあります。

ヨハネは、何度も「神は愛です」と書きました(Ⅰヨハ4:8、16)。それは現実の根底にあるものは、怒り、恐れ、恥ではなく、すべての土台は神の愛だという認識を、大人は持ちにくいからかもしれません。人々は自分が最も恐れていることに基づいて分断され、自分にとって都合の悪い見方を悪者呼ばわりしたり無視したりしがちです。しかし、人々の勢力争いの中でも(5-6節)、神の愛の真理は変わることなく闇を照らす光です。真理は、謙遜、信頼、愛を学ぶように促します(1:7-9、3:18)。私たちの不都合な真実を、光が暴露したとしても、それでも、私たちは神に愛されています(4:10、18、ロマ8:1)。

ジェンナが「世界で一番好き」と私に耳打ちすると、私も「世界で一番好きよ」と応じます。そして、神の無限の愛に抱かれていることを感謝します。

意地悪への対応

ネットの掲示板などで、本題とは無関係に他の投稿者を中傷したり、「ネタ」と呼ばれる嘘を真に受けた人を嘲笑したりする人がいます。これらはデジタル社会の問題ですが、悪意ある投稿が無視されれば本題から逸脱するのを防ぐ助けになるでしょう。

落ち着きなさい

ディズニー映画「ビアンカの大冒険」で、ケガをしたアホウドリのウィ ルバーに医者が「リラックスしましょう」と軽く言いました。すると嫌々やって来た気の立ったウィルバーは「リラックスしていますよ。…これ以上リラックスしたら死んでしまいます」と皮肉を言い、ますます興奮していきます。医者のうさんくさい治療法を見たウィルバーの不安はもっともですが、その光景は滑稽です。本当に危機なのか否かは別として、私たちがうろたえたときの姿を映しています。

いとしいもの

トールキンの三部作「指輪物語」(原題:The Lord of the Rings)に登場するホビットのゴクリは「いとしいしと」と言って力の指輪に対して狂気じみた執着心を示しますが、その姿は、今日の私たちの貪欲、執着、狂気を象徴しています。彼の姿に「人ごとではない」と思わされるのですから、まことに厄介です。ゴクリは、指輪に対する愛と憎しみに苛まれていますが、その声は、私たちの心の内にある飢え渇きの反映とも言えます。

愛と平安

深い悲しみの中にいても、言葉では説明できない平安で心が満たされることに驚かされます(ピリ4:7)。それを父の葬儀で体験しました。弔問客が長い列を作り挨拶して通り過ぎる中、高校時代の友人の顔が見え、ホッとしました。彼は黙ってハグをしてくれました。辛く悲しい一日の中で、心が平安で満たされていくのを感じ、決してひとりではないと元気づけられました。

夜の歌

パーキンソン病に心身をむしばまれていく中、父は自分らしく生きることを渇望しました。心の平安を慕い求めながら、うつ症状に苦しめられました。愛を実感できなくて、孤独感にさいなまれることが多々ありました。しかし、大好きな詩篇42篇のみことばを読むと、孤独感が薄れました。

ひどい事も素晴らしい事も

恐れで凍り付くことがあります。過去に傷つけられた経験があり、今回もまた同じことになりそうだと感じるなら、当然恐ろしくなります。そして「私には、うまく対処する知恵も力も勇気もない。絶対にできない」と精神的に追い詰められます。

友のために

エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」には、聖書を使って人を批判する人物が登場します。彼は「いつも聖書をあさって自分に都合のいい言葉をかき集め、まわりの者には呪いをまき散らす」のです。ここで誰かの顔が浮かぶかもしれませんが、私たちも五十歩百歩、自分に甘く人に厳しくしがちではないでしょうか。

一方、聖書には、自己犠牲の人たちが登場します。モーセは、民が赦されないのなら、自らの名を神の書から消して欲しいと言い (出32:32)、使徒パウロは、同胞のためならキリストから引き離されても構わないと語りました(ロマ9:3)。人は元々独善的ですが、聖書が光を当てるのは、自分以上に他人を愛した人です。なぜなら、それがイエスの愛だからです。

イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)と言われました。私たちはまだ主を知らなかったにもかかわらず、主は「ご自分の者」を「最後まで愛し通され」(ヨハ13:1口語訳)、いのちを与えるために十字架にかかられました。

このように愛し愛されるために、私たちは神の家族になりました (ヨハ15:9-12)。私たちが人々にキリストの愛を惜しみなく注ぐとき、世界はキリストを垣間見ることができます。