お話の時間
子どものころ、私は母に絵本を読んでもらうのが大好きでした。母の膝に乗ってページの絵を細部までしっかりチェックしながら、彼女のひと言、ひと言に聞き入りました。次のページに何が出て来るか、それはもうわくわくしたものです。
ところで、私たちの人生もまた、絵本の読み聞かせのようなものだと考えてみたことはありますか。良い時も、悪い時も、どちらでもない時も、周りの人々は「私たち」という絵本を見たり聞いたりしています。私たちの物語は、その口から出る言葉だけでなく、態度や行動を通して伝えられます。順風や逆風、その時々の状況にどう応答するかを、私たちの子どもや孫たち、配偶者や近所の人、同僚などが観察しています。
使徒パウロは、イエスに従うクリスチャンの人生は手紙だと述べています。それは、「すべての人に知られ、また読まれ…キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ」た手紙です(Ⅱコリ3:2-3)。
周りの人たちは、この手紙を読み、私たちの人生を知るのですが、それは果たして何を語るのでしょう。赦しでしょうか、あわれみでしょうか。寛容、忍耐、もしくは愛でしょうか。
もしあなたが、神の恵みに満たされた人生の喜びを聖霊によって体験しているなら、素晴らしい神の語り部になる喜びも、どうぞ味わってください。
簡潔な証
過去15年間、ダン・スミスの名前と顔が載ったチラシが、ニューヨーク中の喫茶店、コインランドリー、商店に貼られてきました。そこには、「ダン・スミスがギター教えます」と簡潔に書かれていました。そのおかげで、スミス氏はギター講師として忙しい毎日を送っています。熱心な生徒たちは、「私はダン・スミスにギターを教わりました。あなたもいかがですか」と紹介し、別の場所にもチラシを置いてもらうように頼んでいます。
指示を与える
◆ エゼキエル書22-24
少し前のことですが、家内の車を牽引してもらうことになりました。業者に電話をして、我が家への道を説明し、カーナビは使わないようにと運転手に伝言して欲しいと言いました。なぜなら、同じ名前の道路が畑を隔てて存在するので、カーナビ頼りでは道に迷ってしまうからです。電話の相手は運転手に必ず伝えますと言いました。
ところが、家の前に立ってレッカー車の到着を待っていると、運転手から電話があり、カーナビを見ながら来たが道に迷ってしまったと言いました。「やはり」と思いながら道案内をしたところ、ようやくレッカー車が到着しました。
クリスチャンは、天国への行き方に関する正確な情報、つまり、「イエスと個人的な関係を結ぶことによって天国に入ることができる」という事実を提供しなければなりません(ヨハ3:16、Ⅰコリ15:1-5参照)。善行を積むとか、できるだけ良い人になる、というような自分勝手な宗教観に従っていっても天国には行けないことを、きちんと教えてあげなければなりません。相手の宗教に配慮しつつ、私たちは、キリストの死、埋葬、そして復活という真の福音を伝えなくてはなりません。イエスが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ14:6)と、はっきりおっしゃったのですから。
救いは人の力で到達できるものではなく、キリストの贖罪によって与えられる恵みだ。
証をするべきでない時
◆ 詩篇85-87
私の住むアメリカ北東部ニューイングランド地方では、誰もが熱狂的なプロ野球ファンです。例えば、ボストン・レッドソックスの話を就業中にするのが社則に反していたとしましょう。それでも、ファンは話さずにはおれません。それほどレッドソックスを愛しています。
伝えなくてはだめ?
◆ レビ記11-12
◆ マタイ26:1-25
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
―Ⅱコリント5:17
ジムはケアリに福音を語りました。彼女が罪のために聖なる神から離れていること、そして、彼女を救うためにイエスが死んで、よみがえられたことを伝えました。しかし、彼女はあることが心にひっかかり、信じることができません。「イエスを心に受け入れたら、そのことを他の人に伝えなくてはだめですか。そんなことはしたくないのです。」そんなことは自分の性格に合わないから、他の人にイエスを伝えなければならないというのは嫌だと言いました。